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私の進む道

2012私の進む道

私の進む道

2012/01/08

2012私の進む道

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明けましておめでとうございます。2012年がスタートしました。昨年を振り返ってみますとやはり3・11。あの東日本大震災は私の人生の中でも最も衝撃的な出来事でした。そして多くの日本人がそうであったように何気なく抱いていた自身の価値観とは何なのだろうかと向き合うこともしばしば。だからといって現在進行形の真っただ中にいるその時に、確かな形として新たな価値観が形作られたわけでもなく、ただなんとなく漂っているような。とっ、同時にあの危機的な状況の中で「今自身に出来る事とは何か」を探しながら葛藤する間もなくバタバタと、そして様々なアクションが生まれた。相反するかのようなこの両者が同時に存在し、そのどちらもが自己主張していた不思議な一年間でした。



震災直後に「寝袋支援プロジェクト」を立ち上げ主に三陸地域に寝袋を届けましたが、あの時期はアウトドア用品も在庫が底を尽き、途方に暮れていたらアメリカ、フランス、中国からといった外国の企業、また個人から沢山の寝袋が我々の元に届きました。昨年夏に再び三陸地域に訪れた際に避難所にいらした方が「あの寝袋、とっても暖かかったですよ。寒い夜が続いていたからね、とっても助かりましたよ」と声をかけて下さった時には込み上げてくるものがありました。みんなの思いによって実現したプロジェクト。寝袋支援プロジェクト(ランドセル・マフラー・絵本・耳栓や嗜好品なども含む)にご協力くださった全ての方々に心から感謝です。


この一年、様々な出来事がありました。個人的な活動としてはまずエベレスト。4年ぶりに訪れたエベレストのベースキャンプにはほとんどゴミがなかった。何故だろうと周囲を見渡せば至る所でシェルパ達がゴミ袋片手にゴミ拾いをしているではないか。しかも、野口隊のシェルパに限らずあらゆる隊のシェルパ達によって。今ではシェルパ達が中心となりエベレストのゴミ問題に取り組んでいる。そのスタイルが完成していました。


そのお蔭で我々の清掃活動はもっぱら上部の7300M付近。雪に埋もれたテントなどの回収でした。


エベレスト清掃活動は私の中の「作品」でした。一般的には誰も知らなかったエベレストのゴミ問題。そこにスポットをあて、アクションを起こしましたが、ゴミを拾うことだけが目標ではない。エベレストのゴミ問題から見えてくる社会がある。この清掃活動がその社会にどのような影響を与えるのか、まさに目的はそこでした。エベレスト清掃活動は外国人登山家に対するアピールもありましたが、どちらかといえば環境問題に関心を示さなかったネパール社会への訴えに軸足が置かれていた。あれから13年、エベレストを取り巻く環境は大きく変化した。ダワ・スティーブン・シェルパというスターが登場し、彼が中心となりエベレストを守っている。私の心の中の作品が完成した瞬間でした。2000年から取り組んできたエベレスト清掃活動ですが、僕にとってエベレストでの活動はこれで完結。

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これがトップ写真

一つ心残りがあるとするのならば、最後のエベレスト遠征は山頂を目指していましたが、山頂アタック直前で酸素マスクの関連器具であるレギュレターが故障し登頂出来なかったことかな。しかし、考えてみれば6000M付近であれだけの雪崩に遭遇しながらも奇跡的に助かり(2011年5月8日ブログ)、また追い打ちをかけるかのように8000M付近でのレギュレター故障により高度障害の影響で脳浮腫に侵された。あれだけの事がありながらこうして無事にエベレストから降りてきた。それだけでも良しとしよう。あれもこれも欲張ってはいけない。


 

そしてヒマラヤでの活動と言えばマナスル基金。マナスル峰山麓のサマ村で建てていた学校がようやく完成し新校舎での授業は無事にスタート。五年越しのプロジェクトで一時はどうなるのかと色々ありましたが、取りあえず建物はできた。そして親友の藤巻亮太さんが寄付してくださったピアニカ100台も無事に届けることができ、今頃マナスル峰の麓ではピアニカの音色が響き渡っていることでしょう。亮さん、ヒマラヤの子どもたちに音楽の楽しさを体験させる貴重なチャンスを与えて下さったこと、本当にありがとう。感謝感謝です。


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これからはこのマナスル基金によって建てられた学校から更なるアクションを起こしたいと、それは森作り。かつてヒマラヤ地域には森があった。しかし、その多くは伐採され今では禿山状態。故に年々増加するといわれている土砂崩れの被害。そして資源を失ってしまったことによる社会の歪み。マナスル地方では森を失った地元住民が次に目をつけたのが冬虫夏草。中国や韓国業者からのニーズがあり、また高値で売買されるために近年ではこの冬虫夏草を巡るトラブルが絶えない。奪い合い、そして殺人事件にまで発展するケースも。


 

以前、ワンガリ・マータイさんとお会いしたときに「私はなぜグリーンベルト運動(植林活動)を始めたかわかる?人々は資源を失うと争いごとを始める。以前、ケニアも森が多かった。しかし、ほとんどが独裁政権によって伐採されてしまった。そして森を失った人たちは他の資源を求めて争いを始めたのです。私がグリーンベルト活動を始めたのは人々の争いをなくしたかったから。だから私のグリーンベルト運動は民主化運動でもあったのです」と私にお話ししてくださった。ヒマラヤの経験からその言葉の意味が私にもようやく分かってきました。この二年間、アフリカに通いマータイさんのグリーンベルト活動にも参加してきましたが、残念ながらそのマータイさんも病に倒れ昨年お亡くなりになられた。マータイさんから多くを学ばせて頂きました。「あなたの活動は今や多くの人々に受け継がれています。安心してお休みください。本当にお疲れ様でした」とマータイさんにお伝えしたい。享年71歳。


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従来、日本人は森を造ってはその森に手を入れ、また森を造ってきた。伊勢神宮の森のように。この日本人のDNAをヒマラヤの人々に伝えていければなんとも素晴らしい。しかし、問題は、その前に僕が森の勉強をしなければならないこと。これは何よりもハードルが高い。どうして植物の名前はカタカナなのだろうと、「あれでは覚えにくいではないか」と愚痴ってみても意味がないので頑張ります!



 

今年も昨年同様に自身が訪れる現場の世界を撮りたい。「伝える」為にはまずは行動、そして言葉(トークや文章)。そして最近ではそこに写真が加わりました。念願の写真集サイトもスタートしました。まだまだ果てしなく素人の写真ですが、それでも言葉では表現しにくい世界を写真なら伝える事ができる。美しさを表現することもあれば、生々しさ、残酷さを伝える事もある。



 

特にあの「福島原発20キロ圏内の世界」の写真はそうでした。言葉のみでは表現できない世界にカメラを向けた。あの20キロ圏内の写真を公開するかどうか、約一か月間悩みましたが、南相馬市の桜井市長のこの言葉が私に決断させた。「野口さん、あの原発事故で真っ先に逃げたのはマスコミなんですよ。真実を伝えるべきマスコミが逃げたのですから現場で起きている事が世間に伝わらないのは当たり前の事なんです」。


 

予想通り、写真の公開には賛否両論、様々な意見が寄せられました。「生々しすぎる」「子供が見たらトラウマになる」「見せればいいというものではない」「牛を死なせなければならなかった牧場主の気持ちを考えているのか」など。


 

またこれも誤解されましたが、私は原発反対を叫ぶためにあの写真を公開したわけではありません。ただ、今後、日本社会がどのような舵とりをするのかは分かりませんが、しばらくは原発に頼っていかなければならない現状もある。火力発電なり、また天然ガス、また新たなエネルギーに移行するとしても、それなりに時間が必要とされる。どうであれ、しばらくは原発に頼っていくとするのならば、私たちは原子力なるものを知る努力を怠ってはならないし、危機感に関しても時間の経過とともに関心が薄まるのではなく、危機感を維持していかなければならない。人々は危機感を維持するのが苦手だ。危機感を維持するためにはエネルギーも必要とするし、また精神的な苦痛や負担から逃れるために意図的に目を反らすことさえある。


 

そして気がつけば多くの人が、原発事故に対しどこかで他人事のようになっているような気がする。特に原発周辺の人々と全国とでは限りなく温度差が広がっている。それは私自身もそうでした。しかし、あの現場に訪れあの世界を見てしまった。見てしまったが故の葛藤もある。あの悍しい事故を二度と繰り返さないためにもあの現場の世界を一人でも多くの方々に見てほしかった。その上で私たちがエネルギー問題にどのように関わっていくのか。


 

またそもそも論として私たちがどのような生活を「幸せ」と捉えていくのか。ここが一番大切なテーマ。今まで通りの成長を目指していくのか、または必ずしも成長にはこだわらないのか。そのポイントを抜きに原発の存在の有無を議論してもさほど意味がないように感じます。



 

また安易に色分けしたがる風潮にも違和感を抱いてきた一年間でもありました。「あなたは脱原発ですか、それとも原発推進派ですか」とまるで踏み絵を踏ませるかのような。一昔前は「右翼」「左翼」と人を色分けしたがる傾向がありましたが、考えてみたら人の哲学や思想をそう簡単に「右」か「左」などと色分けできるわけがない。人も社会ももっと複雑だ。


 

環境問題にしても「保護か」「開発か」といった議論展開をよく見かけますが、人が生きていく以上は時に開発しなければならない。しかし、その分、どれだけ自然環境に対しフォローができるのか、そのバランスだろう。「開発か、保護か」、「白か黒か」「100か0か」と言った二者択一ではない。


 

原発に関しても環境保護団体の中にも意見が分かれたりする。例えば気候変動について研究している学者や環境活動家の中からは、「火力発電所は温室効果ガスを多く排出する。原子力発電こそが地球温暖化対策だ」といったような意見も出れば、その反面、「核のゴミはどうするのか」「放射能が漏れたら大気も水も汚染される」といった指摘をする環境保護団体も多い。この分かれる意見に対し、どちらが「正しいのか」「正しくないのか」といった議論になりやすいが、私はそのどちらにも一理あると思う。


 

また忘れてほしくないのは、多くの国民が支持し誕生した鳩山政権。鳩山由紀夫氏の事実上の国際公約となったマイナス25パーセント。本当にマイナス25パーセントなど実現できるのだろうかと心底驚き調べてみたらマイナス25パーセントへの根拠は「原発」だ。約三割のエネルギーを原発に頼ってきましたが、原発の依存度を三割から約五割に引き上げる事を大前提にした上でのマイナス25パーセントであった。これは別に隠ぺいされていた情報でもない。報道されていた情報でもあり、また民主党関係者にも確認しましたが異議はなかった。つまり鳩山政権、また鳩山氏のマイナス25パーセントを支持していた人たちは結果的にさらなる原発依存を了解していたということになる。「そんな事は知らなかった」と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、その気になれば情報はいくらでも集まる。大切な事は物事を多角的に捉える思考回路。その上で何が本当に正しいのか、人それぞれが熟慮を重ね、周り云々ではなく自分自身の答えを見つけていけばいい。


 

話は戻りますが、安易に色分けしたくなるような社会の風潮があるとするのならば、社会が社会の限界を作り、また社会自らが思考停止状態を作っているような気がしてならない。




 

とっ、偉そうな事をダラダラと述べましたが、結局のところ僕自身も同じこと。今年のテーマは自身の価値観をもう一度見つめ直してみたい。無意識のうちに自分が作ってしまっている「限界の壁」があるはず。思い込みや無知から来ることも多々あるだろう。せっかく自覚しているだから、これを機会に一度固まりつつあるこの脳味噌を解してみたい。今年はそんな年にしたいです。


 

気がつけば30代もそう残り多くない。過去を振り返り、そして次に繋げるための時期かもしれません。今までの道のりを振り返ると、ひたすらに突っ走ってきました。もちろん、それはそれで意味があった。しかし、それだけではいずれエンストする。時に振り返り、また寄り道をする、今まで全く縁がなかった事や、考えもしなかった事をやってみるのもいいかもしれない。また年初めから必ずしも明確にプランをたてるのではなく、ノープランからのスタートでもいいのかもしれない。ノープラン故に新たに発見することもあるかもしれない。


 

そんな訳で今年はどのような年になるのか全く分かりませんが、今までの活動をしっかりと持続させながらも、今までとは違った脳みその使い方をしてみたい。そして意味のある年だったと一年後に感じられる年にしたい。


 

そしてなんといっても東北。この一年間、何度か三陸地域を訪れている内に何となく次のテーマがぼんやりと見え始めている。これからは「被災地」改め「復興地」。復興地に通い続けながら、私に何が出来るのかを見つけていきたい。人はそれぞれ与えられた役割の中で生きていくもので、その役割とは何か、そのテーマを見つける事がまさに人生の醍醐味。

それと、今年のテーマの一つは体調管理。昨年年末にはヒマラヤ出発当日に体調不良にて緊急入院。秋から体調不良が続いていましたが、ガクンとやってしまいました。疲労による胃腸の機能低下とのこと。一週間ほどの入院で退院できましたが、健康管理も仕事のうち。 今年は一年を乗り切るだけの体力、そして体のケアを心がけていきたい。


 

さて、こんな自分ですが、今年もどうかよろしくお願い致します。そして共にアクションを起こしていきたいと思っています。
 

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2012年1月7日 野口健

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