寝袋支援プロジェクト , 東日本大震災

2012/04/15

復興地ツアーへの想い

ヒマラヤ遠征直前の3月30~4月1日、「野口健と行く復興地応援ツアー」を開催。目的地は石巻市と女川町。この復興地ツアーを思いついたのは1月上旬に三陸地域に訪れた事がきっかけ。年末年始とヒマラヤ遠征を予定していたが出国当日の朝、腹痛に襲われ病院に運ばれそのまま入院。ヒマラヤ遠征は出発当日にキャンセル。やっと日本から脱出できると楽しみにしていたのにこれにはガックリ。

しかし入院してしまったからには何かしらかの意味を見つけなければならないだろうと約10日間の入院中にあれこれと考えていた。3週間のヒマラヤ遠征が飛び、時間ができた。日本にいながらにして、まとまった時間が確保できる。これはこれで貴重。毎日、病室の天井をボーと眺めながら過ごしている内に気がついたら被災地の事を考えていた。それまでは寝袋支援であったり、また学校での子どもたちとの交流といった形で被災地と関わっていたが、一度あえてテーマを持たずに被災地入りしたいと思っていた。いくら東京で情報を集めても限界があり、被災地の事を知るためには現地に行かなければ本当の事は分からない。テーマを待たずに現地入りすることによって新たなテーマが見つかるかもしれないと。

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「そうだ、退院したら被災地に行こう」と退院した直後に被災地に向かった。その時の詳細は過去のブログにて紹介していますが、その訪問をきっかけに「被災地」から「復興地」と名を変えることに。

そしてあの旅で次のテーマが見えた。一人でも多くの方々に現地に訪れてほしい。現地に訪れなければ分からないことがあまりにも多い。そして現場で感じてほしい。私も震災直後に現地入りしあの壮絶な世界に言葉を失い途方にくれた。瓦礫に覆われ廃墟となった陸前高田市の市街地の真ん中に茫然と立ち360度見わたしていた時の出来事。音が「スー」と消えていく。自衛隊のトラックなどが行き来しているにも関わらず音がない世界。そして景色がセピア色のような、まるでそこだけ時の流れが止まってしまったかのような不思議な体験だった。しかし、その次の瞬間、今度は風や砂埃が体に当たる音までもが耳ではなく全身の感覚で捉えているような。この体験は何を意味していたのか未だに分からないが、しかし、理屈ではなく感覚であの世界を受け止めようと必死だったのかもしれない。テレビで見ていた被災地の世界と、実際にその現場で受け止めなければならない世界とでは全くの別物。

東北に出かけ東京に戻ってくるたびに感じていたのはどことなくみな「他人事」なのだ。私も現場から帰ってきた直後だからそのように感じたまでで、正直、現場に訪れる前はやはり私も同じように他人事だった。

どの現場でも共通していることがある。それは「見る」ということは「知る」こと。同時に「知る」事とは背負う事でもある。あれだけの大震災。日本中の人々が何か1つでいい。みんなが何か1つずつ背負えばなんとかなるかもしれないと、そんな事を瓦礫の中に立ち尽くしながら感じていた。あれから一年が経過したが今からでも遅くはないと現地に訪れるツアーを企画した。

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「復興地応援ツアー」という名前に「不謹慎ではないか」という意見も寄せられた。しかし、「ツアー」には私なりのこだわりがあった。復興地は場所によってですが市場も復活し、そしてお寿司屋さんなど飲食店も復活しつつある。確かにまだまだ「復興した」とは、ほど遠いにせよ、それでも少しずつ前へ前へと進んでいる姿を目にし、ボランティア以外にもこの地との関わり合い方もあるのだろうと。それは震災前のように我々が「楽しむ」をテーマに三陸地域に訪れる事。泊まって食事をして買い物もする。1月に復興地に訪れた時に夜になれば毎日、寿司屋を探して歩いた。毎日お寿司を食べ続けましたが、カウンターに座って美味しいお寿司を頂く。僕が「美味いなぁ~」と喜べばそれ以上に嬉しそうなご主人の姿。これが本来の姿なんだな。

この復興地ツアーのテーマは現場に訪れる事。そして地元の方々と一緒に瓦礫撤去行う。そして次のテーマは楽しむ事。故に「ツアー」としました。

初日は北上川での活動。河口から十数キロ上流にわたり、ヨシ原が広がっている。この辺りは海水と淡水が入れ混じるところで(汽水域)その微妙な塩分の混ざり具合により、ヨシが固く育ち、他の産地にはない品質で知られているとのこと。しかし3・11の津波によってこのヨシが瓦礫の下敷きになり壊滅的なダメージを受けた。その瓦礫を地元の関係者やNPO団体の方々と一緒に撤去することとなった。

IMG_4683.JPGヨシ原でがれきの撤去

IMG_4760.JPG雨の中、大量のがれきを撤去

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しかしこの日は悪天候。活動開始直前まで土砂降りで関係者と「中止にするべきかどうか」とギリギリの調整が続いた。なにしろ東京からの参加者は7時間以上もバスに揺られての参加。「せっかくここまで来たのに」という思いはさせたくないというのと、この時期の東北はまだまだ寒い。風邪をひかせるわけにもいかないと。しかし、活動開始直前に雨が上がった。これならやれると開始。1時間半ほど瓦礫撤去活動を行っている内に再び雨が我々を容赦なく叩き付ける。そして活動は終了。

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ブルブルと震えながらバスに戻り早く宿のお風呂に入ろう!となったがそう甘くはなかった。北上川の土手に止めてあったバスのタイヤがストック。土砂雨で土がドロドロになっていたためタイヤが泥濘にハマり進めない。参加者のみんなとバスを押すもあの大きなバスがそう簡単に動くはずもなく一時間ほど押し続けるものの進展なし。さすがに寒さで指先が悴んできた頃にたまたま近くと通ったトラックや近くの運送会社のトラックに助けられた。ワイヤーで引っ張られ泥濘から脱出できた時には一同歓声が上がった。バスの運転手さんは「済みません」と心底に申し訳なさそうな表情をしていたが、逆にあのピンチに参加者一同が一致団結!結果オーライ!

宿は追分温泉ホテル。木造建築のとっても雰囲気のある宿で、また食事がスペシャルに凄い。アシを全国に普及させている熊谷産業の熊谷貞好会長や熊谷秋雄社長、また芸術家の泉椿魚先生とのトークショウや、秋田で活躍している音楽家たちも加わり大いに盛り上がった。

IMG_4814.JPG左から野口、泉椿魚氏、熊谷産業 熊谷貞好会長

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P3312115.JPG宿の皆さんと

二日目は女川町へ。女川町に向かう前に吉浜小学校や大川小学校に訪れた。津波によって壊滅的に破壊されている学校を前に涙を流す参加者の方々。特に大川小学校は生徒、教員の大半が犠牲になった。1月に大川小学校に訪れた際にも感じた事ですが、もし仮に私が教員であの時、あの現場にいたとしたら果たして違った判断を下していたのだろうかと。その時、その現場にいなかった人たちが結果論のみで批評できるものでもないのだろうと。ただ同時にご遺族のお気持ちを察してみれば「もしあの時にすぐに裏山に避難していれば」となるのも当然であり。この問題には答えはない。それだけに当事者の方々は苦しみ続ける。大川小学校はまさにその現場であり、賛否要論あるのは百も承知ですが、私は大川小学校を今のままの姿で保存するべきだと強く感じる。後世に渡りいつまでも人々の意識から忘れ去られないためにも。そしてこの悲劇を繰り返さないためにも。

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女川町ではいまだに山積みされた瓦礫の山々。「絆」といういかにも綺麗な言葉が広がりを見せているが、しかし同時に瓦礫受け入れを拒絶する世の中の風潮。また人は極限状態になればなるほど生々しかったりする。それは生き死にのヒマラヤの世界でも同じ。「絆」という綺麗に言葉によって実際に現場で起きている本質を隠してしまったりしないだろうかと思ってみたり。また最近では「絆」の乱用も目立つ。そういえば民主党を集団離党した方々による「新党絆」なるものの登場には、いやはや、コメントする言葉もない。この一年、改めて「絆」とは何かを考えさせられた。

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こうして一泊二日の旅は終わりました。もちろん、一泊二日で全てを感じる訳などあるはずもない。しかし、それでも感じたことは多かったはず。参加者の皆さんも帰りのバスの中でそれぞれ感じたことを語り合った。東京に戻り何人もの参加者から「また必ず復興地に行きます」といった言葉が私の元に届いた。そう、関わり合い続ける事が何よりも大切。慣れないツアー企画に至らない点など多々あり、参加者の方々には不快な思いをさせてしまったことも多かったと思います。今回の反省点を生かし、ヒマラヤから帰国した後、再び復興地応援ツアーをやりたい。

2012年4月7日 ネパール・アルガータ村にて 野口健

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