今年もヒマラヤで年越し。決まって年末年始にはヒマラヤにふらりと帰る。なにか特別な目的があるわけでもない。目的を持たずにヒマラヤにやってくる。里帰りのような感覚かもしれない。そして寝袋の中で真ん丸になりながら、または歩きながらこの一年間を振り返る。ヒマラヤには日本にはない「時間」がたっぷりある。悪天候になればそれこそ一日中、寝袋の中で本を読んだり、暖炉の前でシェルパ達と大好きな日本酒をチビチビやったり。また気流が荒れた空模様はその表情を刻々と変えていく。厳しさや激しさ。時に冷酷であり、また時に感情を爆発させたりと。寒さに震えながら、その一瞬一瞬に移り変わる空のダンスをじっと眺める。ひたすら眺める。そして「ハッ!」としたその瞬間にシャッターを押す。悪天候は悪天候なりの楽しみ方や過ごし方、そして発見があるものです。
山では悪天候になれば天候が回復するまで待たなければならない。今回のヒマラヤもそうであったように今までどれだけ「待った」ことか。「待つ」という行為は簡単なようでいてとても難しい。耐え切れず突っ込みたくなるような衝動に駆られる事も多々ある。それでもじっと待つ。僕がヒマラヤで体に刻み込まれたのは「待つこと」の意味だ。
勝負事には攻め時というものがある。その時が来るまでじっと待つ。むやみに攻めてはいけない。一見、勇ましく感じられる「攻める」という行為よりも、その時が来るまで「じっと待てること」の方が勇気なのではないかとさえ感じる。そして強みとなる。
「待つ」事ができれば人はそう簡単に山では死なない。しかし、「待つ」ことを知らなければ簡単に死んでしまう事がある。ヒマラヤからの学びだ。
そしてヒマラヤ生活では驚くほどに一年間の様々な出来事を事細かく思い出す。例えば日本にいる時に違和感を覚えながらも、そのまま何事もなかったかのように通り過ぎてしまったこと、または意図的にスル―したような出来事が次から次へと頭の中で再生される。そう、あの時、気がつかなかった事を良くも悪くもヒマラヤで気がついてしまう。
時間があるという事は「考える」ことでもある。ヒマラヤで過ごしていると、いかに日々の生活の中で深く考えていないかが分かる。いや、考える事を避けているのかもしれない。「考える」ということは「向き合う」ことでもあり、向き合うという事は、時に辛い作業でもある。ある意味、向き合う事から意図的に避けてきたとも言える。それなのに、何故かヒマラヤではその時々の光景がまるで映画のスクリーンのように頭の中で流れていく。
僕が年末年始をヒマラヤで過ごしているのは、この現象を求めているからだろう。それは自分自身について、または人間関係や仕事もそう。それらと向き合うための大切な時間なのだと思う。
「野口さん、よく頑張りますね」と言われることがあるけれど、生きている以上は頑張るのは当たり前の事で特段評価されるべきものでもない。それこそ心臓は自身が死ぬその瞬間まで休むことを知らずにひたすら働いている。その心臓に「よく頑張っていますね」とは、よほどの状況が訪れない限り感じる事がないように「頑張る」という事はそれと同じことだ。
頑張ること自体はそう難しい事でもない。犬ぞりを曳く犬たちと同じで自身の体に鞭を打てば頑張れる。では何が難しいのか。難しいのは「真っ直ぐに頑張る」という事ではないか。必死に走っているうちに、どこに向かって走っているのか分からなくなってしまう事がある。まるで羅針盤を失った舟のように彷徨ってしまう。人の感覚は変化するもので昨日の自分と今日の自分が必ずしも同じとは限らない。だから初心を貫くことは難しい。
10年前の自分と今の自分とでは違うだろう。それは成長かもしれないし、または堕落の始まりかもしれないし。
こういう話をしていると「野口さんは自分探しのためにヒマラヤに行くのですか」と言われる事もあるけれど、日々、細胞分裂しているように自分自身も細かく変化している。つまり固定した自分なんてものはないわけで。そう考えるとよく耳にする「自分探しの旅」に果たして意味があるのだろうか。
20代の頃はひたすら「前へ前へ」と突き進んでいく事が僕にとって「頑張る」だった。開拓精神というものか。確かにそれも「頑張る」だろう。その大半は単なる自己満足であっただろうし。
ただ最近、ふと感じる事がある。人にはそれぞれ与えられた役割があるのだろうと。人はその与えられた役割の中で生きていく。そう考えていくと自分の立ち位置というものが見えなければ「役割」も見えてこない。それこそ羅針盤を失った舟となる。自分も変化する。社会も変化する。その変化の中に於いて自分の役割とは何か。自らが先頭に立つこともあれば、逆に「受け身」の中からこそ見つけ出せる「役割」というものがあるのではないか。「真っ直ぐ頑張る」ということは人や社会に必要とされ求められた方向へと進むことなのかもしれない。
ヒマラヤで「待つこと」を教わったように「受け身」にもきっと意味があるのだろう。
僕はヒマラヤで自分の立ち位置を捉え、そこから見えてくるであろう役割を探しているのかもしれない。立ち位置が見えないと人は彷徨いやすいものだから。
いや、そんな大それたものではなく単なる現実逃避、逃避行だったりして。そんなものかもしれないね。ただ、その中に於いても根っこだけはしっかりと持っていたい。自分のことは意外と分からないものです。さて、新年が始まりました。今年も精一杯この命を使いたい。
2015年2月 野口健