2015/03/26
3月26日の産経新聞、野口健連載「直球&曲球」が掲載されています。今回は登山家の「死生観」について書きました。「なぜ山に登るのか」実は登山家にとっても難しい問いなのです。
今日はそんな事を感じながらヒマラヤ行きの荷造りです。出発まではバタバタですが、飛行機に乗っちゃえばこっちのもの。また、ヒマラヤ生活が始まろうとしている。
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「生」を感じさせてくれる登山
この春、再びヒマラヤへと向かう。ヒマラヤ登山は50回を超えた。ヒマラヤに挑戦する度に覚悟しなければならない。特に温暖化の影響だろうか雪崩や氷河の崩落による遭難事故も目立つ。昨年春、エベレスト史上最悪となる大量遭難があった。犠牲者の中に仲間が含まれていた。何度もヒマラヤでザイルを結びあった最強の仲間だった。時に自然は人の予想などはるかに超えてしまう。どんなに気をつけても死ぬときは死ぬのだ。
「なぜ山に登るのですか」とよく聞かれる。登山家にとっても難しい質問だ。マロリーは「そこに山があるから」と答えたという。世界的に有名になったセリフだが、質問した記者に対し「そんなやぼなことは聞いてくれるなよ」とけむに巻いただけという説もある。「なぜ山に登るのか」との問いに対し僕はまだその核心に到達していない。
しかし、ふと感じることがある。それは「時に死ぬからだ」と。仮に百パーセント命が保証された山登りならば冒険としての魅力は半減するだろう。人は一度しか死ねない。経験則で死を捉えることもできない。一度しか死ねないということは、一度しか生きられないということだ。そのたった一つの命を懸けるという行為ほど、実はぜいたくなことはないのでないか。
ただ、山で死んでもいいと感じたことはない。仲間を山で失うと「登山家は命を粗末にしている」「山で死んでも本望なのか」といった声が聞こえてくる。しかし、結果的に山で命を落とすことはあっても、だからといって命を粗末にしているとは思わない。
エベレストに登れば何体もの遺体を見る。凍りついたまま横たわっている遭難者を目にするたびに「死」を理屈ではなく感覚的に捉える。そして「死にたくない」と全身で感じるのだ。
動物の本能はひたすらに生きること。しかし人間は「死」を感じないと「生」を感じづらい生き物かもしれない。僕らは、山で死を感じた分だけ「生」に対する執着心が強くなる。心の奥底から「生きたい」と願うのだ。
そして僕ら登山家にとって「登山」とは「生」の表現の一つだろう。リスクを背負った上での「表現」こそ神髄に迫れるのだろうと感じている。