本日の産経新聞に連載「野口健の直球&曲球」が掲載しれました。
2018年5月3日 産経新聞「野口健の直球&曲球」
今、僕はこの原稿をヒマラヤで書いている。毎シーズン「当たり前」のように通い続けてきたヒマラヤ。
しかし気がつけば数年間離れていた。
厄年とはよく言ったもので僕も枠から漏れる事なく「前」から「後」までどっぷりと浸かった。
3年ものブランクはその影響からであったが、しかし、その「ガタ」も全て嫌なものではない。
ヒマラヤの世界も「当たり前」になるといつしか新鮮味を失う。
19才で始めてヒマラヤに訪れた時の衝撃度合いが100ならばいつしかその半分の50にも満たなくなっていた。
しかし、この「望まなかったブランク」のおかげで今はヒマラヤと向き合えている。
気持ちの勝負は日本を発つ前から始まっているもので特にヒマラヤとなれば一抹の不安も過ぎる。
自分だけが守られているはずはないと。
この感覚こそが懐かしい。
ヒマラヤ遠征が「当たり前」になっていた頃はこの感覚も自動スイッチで切り替わっていたが、今回は手動だった。
不安と向き合うこの気持ちこそがリアルな世界であり死と共に生を感じる瞬間でもある。
ヒマラヤ遠征中はひたすら登る。右足を出したら次は左足。歩幅は60センチ程か。
当たり前だがその繰り返しでしか前には進めない。
遥か彼方、雲を突き破るかのような頂きに向かってこの60センチの繰り返しが果てしなく続く。
登る事に疑問を抱いたら耐えられなくなる。大切な事は「疑問をすてる事」。
疑問を抱けばキリがない。そして疑問という快楽の罠に捕まってしまう。
なぜ山に登るのか本人も分からない。
一つだけ分かっている事は僕の中には乾いた穴のようなものが幾つもあることだ。
山に登ることでその穴を一つ一つ埋めようとしているのだと思う。
山でよく感じる事がある。
坂道のど真ん中で見上げれば「登り坂」。下を向けば「降り坂」。
同じ坂でも見方によっては真逆になる。気持ちをどちらに向け生きていくのかは本人次第だ。
また大風呂敷を広げ雲を掴もうとする行為よりも、
例え小さな一歩でも着実に積み重ねていくことの方が大切だと思う。
変化は突然ではなく小さな積み重ねから生まれてくるのだから。
https://www.sankei.com/life/news/180505/lif1805050021-n1.html
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