一年ぶりのヒマラヤ。
あのマナスルからまもなく一年が経つ。時間が経ってもあの脱出劇に見た光景が断片的に脳裏に漂う。
辛うじてベースキャンプ手前までたどり着いた時には真っ暗闇。無数に散らばるテントの灯りがまるで蛍のように宙を舞っていた。
「ヒマラヤにも蛍がいたんだ」と幻想的な光景を遠のく意識の中で眺めていた。
翌朝、ヘリでカトマンズに運ばれしばらく入院した後に帰国。帰国後の精密検査で「真菌が肺に入り込んだ可能性が高い。タイミングからするとマナスルに入る前だろう」と医師に告げられたが、しかし、その前に既に何かに負けていたような気もする。
マナスルから戻り5ヶ月後に能登半島地震が発生。「逃げて!」と叫ぶニュースキャスターの声を聞きながら瞬時に被災地に向かう段取りを頭の中で始めていた。
それから毎週のようにトラックやワゴン車に寝袋などを詰め込んでは被災地に通った。何度、吹雪の中を走ったことか。この時ほど冬の日本海を恨めしく感じた事はない。
緊迫感と集中力が極限に張り詰め、その為か自身の能力、体力以上の力を発揮させた。
周囲からは「少しは休んだ方がいい」と声をかけられたが、震えながら寝袋が届くのを待っている沢山の人々の姿が目に浮かんだ。
実際に被災された方々から沢山のご連絡を頂き「早く寝袋を持ってきて。もう、寒くて、寒くて、寒くて、このままでは死んじゃうよ」という悲壮な声が多かった。
「今、自分が1日休めば寝袋が1日遅れる」と骨の髄まで切迫感を覚えていた。
能登半島は広い。地図を広げながらその隅々までどのようにして届けられるのか。1月中下旬からは避難所だけではなく個人宅へも寝袋をお届けに向かったが、奥能登の山間部の道路事情は悲惨だった。
途中で崩落していたり、またザクロが砕け散ったかのような光景に車から降り途方に暮れた。しかし、成し遂げられるのならば朽ち果ててもいいと。むしろ本望とすら感じていた。
長い雪道を運転しながら、ふと、感じたことがある。あのマナスルからの生還はこのためにあったのだと。マナスルで拾った命の使い方である。
半年間、被災地支援に走り続けた。5月なりまだ継続中のプロジェクトはあるものの「やるべき事はやった」と体の力がスーッと抜け、自然と涙が溢れた。
それからはまるで燃え尽き症候群のように腑抜け状態が続いた。
そろそろヒマラヤに帰ろう。ヒマラヤの風に吹かれながら先のことを考えよう。
その頃、シェルパ達から「エベレストで一緒にゴミを拾わないか」と誘われていた。立場が逆転した事が何よりも嬉しかった。さっそくヒマラヤ行きの準備にとりかかった。
しかし...
日本を出発する数日前に衝撃的な知らせがネパールから入る。
エベレスト街道の氷河湖が決壊しターメ村が流されてしまったと。
学校支援やネパール大震災の被災地支援もあり関係の深い村だった。次の震災に備え避難所も建てた。
あの2015年のネパール大震災の時に最も被害が大きかった村の一つだ。
私は地震発生時、そのターメ村にいて目の前で地面に亀裂が入るのをみた。次の瞬間に1回目の揺れでは倒れなかった家屋が無惨にも一斉に崩れ去った。村人の泣け叫ぶ声が谷をこだました。
幾たびも剥がれては少しずつ姿を皮膚に変えていく「かさぶた」のように何年もの歳月をかけターメ村は復興した。
完全に元通りの生活を取り戻した矢先に今度は洪水がターメ村を襲ったのだ。
この半年間、これでもかという程に瓦礫に囲まれてきた。瓦礫にも「エネルギー」がある。
まるで「ここには人々の営みがあったのだ」と最後の叫びのように。
被災地に訪れる度に心が抉られていく。隙間風が胸の中に入り込み寂しげな乾いた音をたてながら背中から抜けていった。
でも同時に訪れた先々で地元の皆さんとの出会いにどれだけ心が救われたことか。能登の皆さんはとても、とても優しかった。故に身を捧げる事になんら躊躇することもなかったのだろう。
エベレスト街道の一部地域が被災地になった今、再び人々の悲しみと向き合う事になる。
自分に何が出来るのか、まずは壊滅的な被害を受けたターメ村に入ること。その上で何が出来るのかを考えたい。
これもまた命の使い方をなのだろう。
2024年8月22日 カトマンズにて