野口) 2024年8月、ネパール・ヒマラヤで氷河湖が決壊し、下流にあるターメ村が洪水に襲われた。
かねてから、地球温暖化の影響で氷河が急激に融解し、氷河の末端にできる湖(=氷河湖)が恐ろしいスピードで拡大していること、そしてその湖が決壊して起こる氷河湖決壊洪水(Glacial Lake Outburst Flood=GLOF)がいつ起きてもおかしくないことは、専門家たちによって指摘されてきた。私自身も2007年のアジア・太平洋水サミットや2008年の北海道洞爺湖サミットで氷河湖決壊防止について訴えた。
その頃に書いた拙著「自然と国家と人間と」の中から、温暖化と氷河湖に関する章を、この災害が起きてしまった今、あらためてお目通しいただきたく、ここに転載します。
私は「第1回アジア・太平洋水サミット」(2007年12月)の運営委員を務めていた。
2006年12月に主催者であるNPO法人「日本水フォーラム」から「水サミットで運営委員を引き受けてもらえないか」といった相談があった。
シンポジウムや行政の委員会などで委員や運営委員といった役職についたことはあるが、早い話、名前を貸してもらえませんかということで、実体が乏しいことが多い。
日本水フォーラムがどういう意図で声をかけてくださったのか分からないが、私としてはタイミングがジャストであった。
なぜならば、ヒマラヤの氷河が溶け出すことによって引き起こされる被害を目の当たりにし、地元のシェルパから「ケン、一緒にエベレストのゴミを拾ってきたじゃないか。あの氷河湖が決壊したら我々は死ぬしかない。次は氷河湖問題に取り組んでほしい」と強く要望されていたのだ。
正直、これには困っていた。エベレストのゴミ問題はそれはそれで大変であったが、ターゲットを絞ることができていた。各国登山隊やシェルパたちであったり、ネパール政府であったりと。
しかし、気候変動によって温暖化が進み、その影響でヒマラヤの氷河が融解していく問題はターゲットを絞れない。ネパール自体が温室効果ガスを特に排出しているわけでもない。相手は世界となる。それだけにシェルパたちから「何とかしてほしい」とお願いされても、私に何ができるのかが見えなかった。そのタイミングで「水サミット」へのお誘いがあったのだ。
サミットとなれば世界に訴えることができる。「日本水フォーラム」 には、ヒマラヤの氷河湖決壊対策をセッションに入れて、それを私にやらせてもらえるのならば引き受けます、と了承した。
引き受けてまず感じていたことは、形式的なサミットで終わらせてはならないこと。学者でも政治家でもない私の役割は現場で何が起こっているのかを伝えること。つまり生きたサミットにすることだ。
そのためにまず取りかかるべきなのは、ヒマラヤを抱えている国々(ネパール、ブータン、インドなど)や、ヒマラヤ下流国で洪水の被害を受けているバングラデシュなどを訪問し、可能なかぎり被害の状況を把握すること。そして各国の元首または環境大臣、水資源大臣にサミットへの参加を呼びかけることだ。披害を受けている国々を連携させ、一緒になって世界に訴えた方が影響力が増すと考えたからだ。運営委員を引き受けてからは各国の情報集めから訪問の日程調整など慌ただしい日々が始まった。
そもそも地域を限定した「水サミット」が開催されるに至った経緯は、2006年にメキシコで開催された第四回「世界水フォーラム」で橋本龍太郎元首相が「アジア・太平洋水サミット」の設立を官言したことにはじまる。「アジア・太平洋地域の水害による死者数は世界の80%を占める。だから、この地域でサミットをやらなければならない」と橋本さんは話していた。
サミットはアジア・太平洋諸国の元首級の代表が集まり、水害などの対応策について議論する。同地域での2001年から2005年の水害による年平均死亡者数は約6万人に上るのだ。
私も登山家として何度もヒマラヤを訪れ、温暖化の影響で急激に溶け出す氷河の水が引き起こす雪崩や洪水の被害を体感してきた。
2006年末から2007年初めにかけて、厳冬期のヒマラヤで気づいたことがある。真冬の6000メートル峰だけあって、さぞかし寒いだろうと覚悟を決めていたら、一度も雪は降らなかった。何と一番薄手のダウンジャケットで山頂まで登れてしまったのだ。
2006年にマナスル峰に挑戦した時も、5月上旬に5000メートル付近で雨が降った。そんなことはかつて経験したことがない。恐ろしいのは、高温で緩んだ氷河が雪崩を引き起こすことだ。おかげで最近のヒマラヤは雪崩が頻発する。急激に溶け出した氷河はネパールのあちらこちらで洪水も起こしている。危なくてしようがない。
2004年にはヒマラヤに挑戦中の仲間が登山隊ごと全滅した。山の上部の氷河が崩落し、安全であるはずのベースキャンプに氷が土石流のように押し寄せたのである。2005年秋にも仲間の一人がヒマラヤで雪崩に流されて遭難死。ほかにも雪崩や氷河の崩壊による遭難事故が相次いでいる。
国連の「気候変動に関する政府間パネル」は「平均気温や海面水位の上昇などから気候システムの温暖化は疑う余地がない」と強調し、「20世紀半ば以降の温暖化は、人問活動による温暖化ガスの増加によってもたらされた可能性がかなり高い」とも断言した。地球の温暖化が指摘されるたびに学者やアメリカ、中国などの産業界から反論がなされてきたが、今回の報告書はそれらを強く跳ね返すものだ。
一説によると、このまま気温が上昇した場合、1度上がれば5000万人が水不足に悩み、30万人以上が死亡するという。実際、2003年夏に平均気温が3.8度高くなったヨーロッパでは5万人以上が亡くなった。仮に海面が今より1メートル上昇すると、日本の砂浜の9割が海に沈み、港湾や堤防の改修などに10兆円規模の投資が必要になるという。このままのスピードで温暖化が進めば、40年後にはヒマラヤの氷河は五分のーに消えるという報告もある。
日本にいても「地球の温暖化」という言葉はよく耳にするが、どれだけその脅威を全身で感じているだろう。ヒマラヤの氷河が溶け、川に流れ込むさまは、私には地球の流血に見える。
しかし、温暖化の影響は何もヒマラヤに限らない。
2002年6月、難民キャンプの取材でアフガニスタンに向かった時のこと。直前までアメリ力が空爆していたので難民が多いと思っていた。陸路でアフガニスタンの国境を越え、ヒンズークシ山脈の麓を四輪駆動車で走ると、大きな川があった形跡がいくつも残っていた。乾いた川の近くには村々が点在するが、人はほとんど残っていなかった。
難民キャンプを訪れると、人々から「我々が子供のころからアフガニスタンは戦争を繰り返してきた。そのたびに難民になっていてきりがない」と聞かされた。驚いたのは「いつからか冬になっても山が白くならない。雪が積もらない。川や井戸も涸れはじめた。私たちは爆弾よりも水がない方が怖い。地雷なら片足で済むかもしれないが、水がなくなれば確実に死ぬ」という証言だった。アフガニスタンの難民の中には、環境の変化により住む土地を失った人々もいたのだ。
そのキャンプでは深刻な水不足から、平均して毎月80人もの子供が命を落としていた。我々の一行を医師団と勘違いしたのか、私の前にはぐったりと弱り果てた幼子を抱えた親たちがズラリと並んだ。しかし、私には何もしてあげることができない。村はずれには遺体の上に砂利を撒いただけの粗末な墓がいくつも並んでいて、その大きさから子供の墓であるのは-目瞭然だった。
温暖化の影響で山に雪が降らなくなり、水源地が涸れ、干ぱつが起こり人々を死に追いやっているとしても、アフガニスタンに暮らす人々がそれほどCO2(二酸化炭素)などの温室効果ガスを排出しているとは到底思えない。我々先進国の人間が開発に明け暮れ、経済大国に向けがむしゃらに走り統けている間に、その代償としてめぐりめぐってこの地に干ばつがもたらされたのだと思うと胸が痛んだ。
環境破壊について、我々はつい被害者になりうる自分を想定しがちだ。しかし、自分が加害の側にいる意識はあまりに希薄である。目の前でぐったりと死を待つ子供たち、その姿を決して忘れないように私はしかと目に焼きつけた。
アフガニスタンの老人の話を聞く(2002年7月)
2007年春にチベット側からエベレストに挑戰した時のこと。いよいよ登頂を目指しての高度順化で6000メートルまで登ると、氷河帯の氷柱が以前よりかなり縮小していたのが気になった。地球温暖化の影響はこんな高地にも出てきていた。
また翌年、今度はネパール側のベースキャンプで最も驚いたのが、まだ四月中旬であるにもかかわらず至る所に川ができていたことだ。私の経験では、毎年遠征中の後半になると氷河が溶けてベースキャンプに川が流れ、いくつも水溜まりができた。そのたびにテントの位置を変えていたのだが、それは毎年5月中旬のこと。しかし、5年ぶりに訪れてみると、すでにアイスフォールから水が流れ、大きな川となっていたのだ。またモレーンの下の氷河が溶け出し、あちこちで水がジワリジワリと湧き上がっていた。
ガイドのアンドルジさんも「これはおかしいね。今の時期にこんなに水が流れていたら1ヶ月後はベースキャンプは大変なことになるね」と話し、友人のダワ・スティーブンも「昨年も氷河が溶け出すのが早いと感じていたけれど今年はもっと早い。これだけ高温になってきたということだろうが、ベースキャンプから上部のアイスフォールの崩壊や雪崩が心配。昨年も雪崩の事故があったが、今年は昨年以上に注意しなければならない」と心配していた。
アイスフォールの取りつきで清掃活動も行ったが、5年前には氷で覆われていた場所が露出しており、当時は見つけることができなかったゴミを発見した。 アイスフォールに墜落したヘリの残骸があったり、回収された缶詰の製造月日が何と1962年であったりと、氷の下から出てくるわ出てくるわ、という状態であった。
2007年の夏、工ベレスト街道沿いはこのクーンブ氷河が急激に溶け出したことによって洪水が相次いだと指摘されている。ベースキャンプでゴミを回収しながら、ゴミ以上に大きな問題があるとひしひしと感じていた。川の流れるせせらぎはまるで春の到来を知らせてくれているような、何も知らなければのどかな音なのかもしれないが、今の私には地球の悲鳴にしか聞こえない。
ヒマラヤは人問にたとえれば頭だ。頭が高熱でうなされれば体全体がおかしくなる。 ヒマラヤの異変は地球全体の異変でもある。
2007年エベレストの氷柱、以前に比べてかなり縮小されていた
厳冬期のヒマラヤで一度も雪が降らなかったと前述したが、2007年2月にはネパールの首都力トマンズで雪が降った。標高約1300メートル、沖縄とほぼ同じ緯度の温暖なこの地で雪が降ったのは実に63年ぶりだそうだ。
エベレスト挑戦を前に高所トレーニングを行ったクンブ地方にあるイムジャ氷河湖は、地球温暖化で氷河が急激に溶け出して水量が増し、決壊が危惧されている。1962年には氷河しかなかった場所が、今では巨大な湖に姿を変えている。2001年には0.8平方キロメートルだった湖が、2007年では1平方キロメートルに拡大した。実際に訪れてみたが、その大きさに唖然とした。
これがもし決壊し、溜まっている大量の水が一気に流れ出せば、麓にあるシェルパの村など跡形もなく流されてしまう。外国人トレッカーも含めればその犠牲は考えただけでゾッとする。
国連の「気候変動に関する政府間パネル」の報告書(2007年)によれば、温暖化によって天然のダムの役割も果たす氷河の融解が加速すれば、アジアで7億人以上の生活が脅かされると警告している。
このままの早さで融解が進むと、ヒマラヤの氷河は2035年までに大半が消滅するというのだ。また、国連開発計画は2001年時点でネパールには3252の氷河と2323の氷河湖があり、5年から10年の間に20以上の氷河湖が決壊するおそれがあると報告している。
高所トレーニング中も多くのシェルパたちに「イムジャ氷河湖が決壊したら私たちは死ぬしかない。何とかならないものか」と訴えかけられた。エベレストの南約9キロの地点にあるイムジャ氷河湖は、1960年ごろから拡大し、現在直径1キロ、水深90メートルにも達し、2800万トンもの水量を抱えるまでに膨張している。決壊すれば麓の村々が流され、多くの命が失われる。一つの方法は氷河湖に穴を開けるかポンプで吸い出して少しずつ水を流すことだ。だが、これも緊急措置でしかない。
温暖化の影響で氷河から急激に溶け出した水が流れ込み、日々拡大している氷河湖はほかにもある。それらが決壊しては洪水を起こし、麓の住民の命や生活を脅かしている。
温暖化による海面上昇の被害はすでに広く知られているが、ヒマラヤの氷河にまで被害が及んでいる事実は意外と知られていない。
エベレストから下山後、すぐにネパールのコイララ首相(当時)と会談し、サミットへの出席をお願いした。思いが通じ、コイララ首相から「ネパールの氷河問題は深刻。今後、さらなる水害で国内だけでなく、ほかの流域国にも被害をもたらす可能性があることを各国に伝えなければ」と出席を約束していただいた。
氷河湖対策は今までのエベレスト清掃登山活動よりもはるかに規模が大きい。専門家に調査を依頼し、決壊しそうな氷河湖は湖水を抜かなければならないだろう。私個人の取り粗みだけで解決できるものではない。かかる資金も比べものにならないだろう。そのためアジア開発銀行、国際協力銀行、国際協力機構(JICA)といった機関にも協力を呼びかけなければならない。
イムジャ氷河湖を訪れたことをきっかけに、今度はバングラデシュに出かけた。
すでにネパールやブータンでは度々洪水が起きているが、その被害はバングラデシュにも及んでいる。氷河湖から流れ出した水はインド北東部を経て、バングラデシュを流れる三大河川(ヒマラヤからガンジス川、北部チベット高原からはブラマプトラ川、ミャンマーのアラカン山脈からはメグナ川)に流れ込み、ベンガル湾へと抜ける。その際、これらの大河の氾濫を引き起こしているのだ。
ただでさえバングラデシュは国土の半分以上が海抜7メートル以下にあり、北東部の年平均降水量が東京の倍以上の5000ミリを超え、洪水が多発する地帯だ。そこに温暖化が追い打ちをかけている。
訪れたのは首都ダッ力から車と舟を乗り継いで約5畤間のところにある卜ンギバリ市ハシャリ村。ネパール側とチベット側から流れる川が合流する地点から、少し下流に下ったところの村だ。
川から上陸し、村人たちの実際の洪水の被害がどれほどのものかを尋ねてみた。
すると開口一番「この1年で川岸が300メートル以上も浸食され、150軒もの家を失った。この一週問だけでも6軒が消えた」と、驚くべき答えが返ってきた。
川岸に立つ家では、解体作業が急ピッチで進められていた。危険を避けるため、川から離れたところへ移築するのだという。ある米屋の主人は「私は13回も店を移動した。10年ぐらい前から侵食が始まったが、特にここ2年でスピードが速くなった。 いくら移築しても、また川が迫ってくる」と嘆いていた。
さらに村人は我々が乗ってきた舟を指さし、「あの辺りにはかつて市場があったんだ」と説明してくれた。我々が今、村人と話しているこの場所も翌年にはなくなっているかもしれない。そう思うと、全身がゾクッと震えた。こうしている瞬間も、村はガンジス川によって確実に削られている。
洪永に苦しむ被災者や、さらなる被害から逃れようと避難していく人々の姿を目の当たりにし、胸が痛んだ。しかし、そんな中でも心がホッと安らぐ瞬間があった。
子供たちのキラキラした目だ。避難生活を送っているにもかかわらず、目が合うとニコッ。満の笑みで、必ずといっていいほど手を振ってくる。子供に限らずこの国の人々には笑顔が実によく似合う。
2008年バングラディシュ どんどん浸食されている
首都ダッカ在住の日本人から聞いた話だが、ある国際機閾が「自国に生まれて幸せですか」と各国でアンケートを行ったところ、バングラデシュの国民が断トツ1位で「幸せ」と答えたという。最貧国であり、あれだけ災害に苦しめられているというのに皆生き生きとしている。それに比べ日本は何と68位だったとか。
その後、私のプログで日本がアンケートで下位だったことに触れ、「日本はすてきな国じゃないか」と意見を書いた。多くのメッセージが寄せられたが、「私は日本が好きではない」といった意見が相次いだのには驚いた。
今まで多くの自然と接してきたが、私が世界で-番好きな自然は白神山地のブナの原生林だ。また、実家のある京都の哲学の道をふらりと歩くのも好きだ。食事だって美味しい。そしで何より日本人の勤勉さ、律儀さは世界に誇れると感じている。
確かに自殺が社会問題になったり、子供が子供をあやめたりと、病んだ部分も多く抱えている。しかし、100点満点の社会などありえない。悪いところは正していけぱいい。私は日本の自然が大好きだから環境保護活動を行っている。もし日本に魅力を感じていなければ日々、これだけ必死に活動など行っていない。好きだから守りたいという純粋な気持ちが原動力だ。
以前、尾瀬でバングラデシュ人のモハメッドさんと出会った。彼は毎週のように尾瀬に通い、写真を撮っていた。そんな彼の言葉が忘れられない。
「日本には美しい自然がいっぱいある。災害だけでなく、深刻な環境破壊が行われている私の国に尾瀬の写真を持ち帰って、自然の美しさやそれを守ることの大切さを訴えたい」
バングラデシュ滞在中に水資源担当大臣モティウリ・ラフマン氏にお会いする機会を得た。大臣は現在、水資源省、保健省、宗教省の3省の長を兼ねており、多忙と聞いていただけに面会できるという朗報に気分が高まった。
早速、私が運営委員を務めていた「アジア・太平洋水サミット」の資料を抱え、首都ダッ力の中心にある官庁へと向かった。官公庁街といっても20年ほど前の日本の公務員宿舎を思い出させる雰囲気である。父が官僚だった私にとってはどこか懐かしい風景だった。
2007年バングラディシュ水資源担当大臣モティウリ・ラフマン大臣(当時)と会談
大臣の執務室に通されて約1時間話したが、バングラデシュの抱える環境問題は、私が滞在中に目の当たりにした状況よりはるかに悲惨に思えた。大臣いわく、バングラデシュには140本もの河川が流れるが、自国に源流がある川はーつもない。すべてネパールやインドなどから流れてくるため、自国では川のコントロールができないと嘆いていた。乾期にはインドのファラッカダムで水をせき止められ、幅四キロもある川が干上がるという。逆に雨期には大量の水が放出され、10万人が家を失う。国土の80%が氾濫原だと聞いていたが、その納得がいった。
「ダムなどを独自で造ってはどうか?」と尋ねたところ、すでに計画はしているという。ただ、500憶タ力(1タ力=約1.3円)以上の費用がかかり、自国だけでの建設は難しいそうだ。最大の懸念はインドが新しいダムの建設を予定していることで、完成するとYの字の川の片方がファラッカダム、もう片方が新しいダムにせき止められるという。7割の人が農業に従事するバングラデシュにとっては死活問題だ。
その上での解決策が2つあると大臣は言っていた。一つは二国間会議、もうーつは国際会議での議論であると。水サミットはバングラデシュにとって非常にありがたい会議とおっしゃる。出席はもちろん、分科会等、日本主導で上流域国と下流域国の議論の場がほしいと陳情を受けた。
私一人の力では無理があるが、ネパール、インド、バングラデシュ三国で話し合う場を提供し、共同宣言をつくることを第一プロセスとして、次はインドにもサミットへの出席を促しに行きたいと思っていた。
バングラデシュから帰国後、東京のある会合に出席した。「このまま温暖化が続けば100年後には北海道でしか雪が降らなくなる可能性がある」という報告があった。雪がなくなれば、春の雪解け水もなくなる。本来、冬季は山の貯水量はあまり減らないが、雪がなければ夏ほどでないにしろ貯水量が減る。そうなれば慢性的な水不足にもなりかねない。ある参加者の「雪は神様がくれた天然のダム」という言葉にはグッとくるものがあった。
スケジュールの合間をぬって、インドのソズ水資源大臣と個別会談をする機会を得た。大臣は1997年の京都議定書締結時に環境森林大臣として来日している。いわば環境のプロだ。水サミットで、ヒマラヤの氷河融解の問題について、上流ネパール、中流インド、下流バングラデシュの3カ国で話し合う場を私はつくりたかった。その提案をすることがこの会談の最大の目的だった。
「それは非常に面白い!」と大臣は賛成してくれた。さらに「ブータンも加えた4カ国にしては?」との助言もいただき、インドの氷河問題を研究する機関への視察許可も得た。
大臣は「活動家は研究者が示したシミュレーション結果を指をくわえて見ているだけでなく、実際に手を打つべきだ。活動家一人ではなく国民を巻き込んだ活動を今日、明日からでも始めることが重要なんだ」としきりに訴えた。そして最後に「ケンは友達。お互い手を取り合って温暖化をくい止めよう」と言われた。
国民性なのか、初対面なのにとても気さくな大臣に親近感がわいた。100年後、北海道にしか雪が降らない日本――。そうならぬよう今から布石を打たなけれぱ、と誓った会談だった。
その後、東京・代々木の国際協力機構(JICA)本部を訪ねた。洪水被害を視察したバングラデシュではJICAの方々にご案内いただいたので、お礼にあがったのだ。JICAは政府開発援助(ODA)の中で技術協力、無償資金協力を担う組織として、現場レベルでの援助を調整するとともに、現場の声が事業に反映されるように日々多くの隊員が汗を流している。世界155カ国以上で活動を行っているが、一言で援助といっても現場は実に大変だ。
私は外交官だった父の仕事の関係で幼少時代を中近東で過ごした。例えば父がイエメン大使として赴任していた時のこと、イエメンでは日本人の青年海外協力隊員が、水道も電気もなく外国人が一人もいない村に住み込んで、現地の人々に農業を教えていた。父は毎年、イエメンの地方で活動している青年海外協力隊員を大使公邸に招いて一人一人にワインを注ぎながら「あなたがた抜きにして日本の国際協力は成り立たない。あなたがたの活躍は我が国にとって誇りです」と、現場で汗を流す隊員に対して心から敬意をはらっていた。
赤痢や黄熱病、マラリアに冒されることも日常茶飯事。「よくこんな僻地で日本人が一人で頑張れるな」と子供ながら驚いた記憶がある。
洪水に苦しむバングラデシュは町中がゴミにあふれ、河川はまるでどぶ川のように臭い。ネパールもそうだったが、発展途上国ではまだ環境問題に対する意識が低い。廃棄物の処理回収は身分の低い者の仕事と考えられ、自ら進んで取り組もうとしない風潮もある。
バングラデシュで出会った協力隊員の渡具知愛里さんは日々小学校を回り、環境教育を普及させようと奮闘していた。「苦労が多いでしょう」と尋ねたら、「少しでもバングラデシュのためになるなら幸せです」とキッパリ。そのまなざしの強さが印象的だった。
父がよく言っていた。「各国の現場で何年問も試行錯誤しながら現地の人々に技術協力していくのは、強い使命感がなければできないこと。日本のODAは現場の協力隊員や調査団の皆さん一人一人の情熱によって支えられでいるんだよ」。人から人に伝える。その姿こそが国際協力の土台なのだろう。
しかし、ODAの予算は削減が続いている。1997年を頂点に、過去10年間でおよそ4割も減っているのだ。
国内の厳しい経済状態も響いているのだろうが、ODAが必ずしも相手国から感謝されないのではないかといった国民の批判も根強い。例えば、中国の北京国際空港のターミナル新築には日本から300億円が提供されたが、完成式典では日本の援助に対する感謝の表明はなかった。また南京母子保健センターも建設されたが、その建設記念碑には日本の援助についての記述はゼロ。ショックを受けた谷野作太郎中国大使(当時)が中国に抗議したほどだった。
それでも国際社会で存在感を発揮するための重要な外交手段であるODAは、安易に減らしてほしくない。特に環境問題には国境はない。中国の大気汚染は日本にも酸性雨、光化学スモッグの形で襲いかかっている。環境対策への国際的な取り組みは自らを救うことにもなるのだ。JICAの地球環境への取り組みをーつ紹介しよう。
私がよく訪れるネパールにはまともなゴミ処分場がなかった。おかげでエベレストで回収したゴミの大半は、日本に持ち帰るしかなかった。1980年代にドイツがゴミ処分場の導入を試みたが、地元住民が異臭に反発して頓挫。ドイツの場合、ハード面の整備は進めたが地元住民への啓蒙活動や技術養成などソフト面のケアを行っていなかったため、撤退後のネパールには何も残らなかった。
JICAはこれを教訓に、まずは地元の学校や住民に対して環境教育を行い、ネパール人技術者を日本に招いて研修を行った。その後、首都カトマンズ郊外に環境に優しい準好気性埋め立て方式の処分場を建設。今ではカトマンズ市内から毎日約700トンものゴミが運ばれている。
ネパールにとってゴミ処分場の建設は悲願だった。力トマンズ市民からは「日本やJICAのおかげで私たちの生活が変わろうとしている」といった感謝の言葉をよく耳にする。一方的にODAを削減せず、こうした「日本の顔が見える援助」に期待したい。
JICAによるカトマンズのゴミ処分場
私はハラハラドキドキさせられていた。2007年10月にブータンに出かける予定であったのだが、直前になっても飛行機のチケットが取れない。ただの旅行なら「仕方がない」で済むが、今回は仕事だからそうはいかない。ブータンでの予定がもう組まれており、その中にはブータンのキンザン・ドルジ首相(当時)との会談もある。事前に帰国便だけは取れたと旅行会社から連絡を受けたが、入国できなけれぱ出国などできるはずもない。
私がやり遂げたいと思っていたのはヒマラヤの氷河による水害に苦しむネパール、バングラデシュ、インド、ブータンの元首級を水サミットへ呼び、ともに披害を世界に訴えること。問題解決のきっかけにしたかった。すでにブータン以外の首相や担当大臣からは参加の約束をいただいており、後はブータンだったのだ。思いが通じたのか、ようやく念願のブータン行きのチケッ卜が取れた。
登山を志した者ならば誰しも「いつかはブータンに」という憧れを抱く。ブータンはヒマラヤ山脈南側の斜面にあり、北はチベッ卜、南はインドに挟まる。標高200メートルの亜熱帯密林が広がるインド国境地帯から、ブータン最高峰のガンカルプンスム峰(7541メートル)などの7000メートル級の山々が連なる北部山岳地帯まで、大自然の宝庫である。
ブータンではヒマラヤの頂などは神仏の座として信仰の対象になっており、人間が汚すことは禁じられている。自然の存在を擬人化し、「神」もしくは「もののけ」と捉えているという。そのため、ガン力ルプンスム峰は登山禁止となっていて、いまだに足を踏み入れた者はいない。
登山家として、もうほとんど残されていない7000メートル級の未踏峰には冒険心がうずく。同時に、ツアー登山などで商業化され、心ない登山家たちが捨てた大量のゴミにまみれるチョモランマの姿を見てきただけに、未知の世界が手つかずで残るブータンにロマンも感じていた。
その憧れのブータンに登山以外の目的での入国だ。バンコク経由で首都ティンプー入り。慌ただしくスーツに着替えて国会議事堂へ向かった。
まずは外務省のウォンディ氏と会談した。この国には国土の60%以上を森林地蒂にしなければならない規則があり、現在は72%が森林地帯。そして国土の26%強を森林保全区にしているという。 アジア平均が4.26%、世界平均は5.17%であるから、いかにブータンが森林保全に力を入れているかが分かる。
ウォンディ氏は「ブータンにとって環境保全は、国策の中心。私たちは自然を破壊してまで産業化を急ぐつもりはない」と頼もしかった。ただ、ブータンでも温暖化で拡大した氷河湖の決壞による被害が相次いでいる。しかし、本格的な調査を行っていないために具体的なデータがなく、まだ解決に向けて動き出せていない状態であった。
ついに念願のキンザン・ドルジ首相との会談が始まった。
実は私には不安があった。王政国家のブータンは当時、民主化手続きが進んでいて、2007年末以降に総選挙を実施、憲法も制定し、立憲君王制に移行しようとしていた。第5代国王の戴冠式も控えていた。そのようなタイミングで、果たしてサミットに参加してくれるだろうか。
驚いたことにドルジ首相は「ヒマラヤでの清掃活動に敬服します。ヒマラヤ流域国で温暖化の深刻な被害を訴えるというあなたの提案には大贊成」と実にこと細かく私の活動を知っていた。
ブータンでも温暖化で氷河が溶け、洪水の披害を多く受けている。例えば1994年のルゲ・ツォ氷河湖の決壊では、多くの犠牲者が出たという。
また、ブータンは水力によってすべての電力を賄っていて、その電力を隣国インドに売って国家予算の半分を稼いでいる。氷河湖の決壊が続けば発電所に大量の土砂が流れ込み、機能しなくなるのだ。「それこそブータンの終焉を意味している。国民の生命、財産を守るためにも氷河湖問題は避けては通れない」と首相は強い危機感を抱いていた。
そして日本の皇太子殿下がご自身のお誕生日に水サミットへのご出席を発表されたことに触れ、「日本側のサミットに対する熱意は十分に感じている。確かにブータンは変革期だが、どのような形であってもサミットには参加する」と心強い言葉をいただいた。これでやっと4カ国がそろった。
そして2007年12月、「第1回アジア・太平洋水サミット」が大分県で開催された。日本の皇太子殿下、オランダのウィレム・アレキサンダー皇太子殿下、福田康夫首相(当時)に森喜朗元首相(運営委員長)ご臨席のもと、開会式が行われた。式典を眺めながら、その1年前に運営委員に誘われ、セッションに「気候変動によるヒマラヤの氷河の融解」を含めてくれるならと引き受けたことを思い出していた。
運営委員としてまず考えたのは「生きたサミット」にしたいということ。これまでも環境をテーマにしたシンポジウムには参加したが、言葉が頭の上を飛び交うだけで、現場の危機感などないものが多かった。まるで地位ある方々の知恵比べ合戦のようで、絶えず我々現場の人間との温度差を感じていた。
温暖化で水河が急激に溶け出し、洪水が多発しているヒマラヤ流域国(ネパール、バングラデシュ、ブータン)。今もいつ決壊するともしれない氷河湖の麓で多くの人々が怯えながら過ごしていることを忘れてはいけない。私はこのサミットの参加者とヒマラヤの人々の「体温」をできるかぎり近づけたかった。
セッションではインドのソズ水資源大臣が、「温室効果ガスの削減は先進国だけでなくインドも含め、世界をあげて取り組まなければならない」と表明。1997年の京都会議では発展途上国側は温室効果ガス等の削減義務に反発が強かっただけに、ソズ大臣の言葉は一歩前進だった。
プータンのドルジ首相は「我が国は国土の72%が森林で、二酸化炭素(CO2)の排出量よりも吸収量の方が多い。それでもブータンの氷河は急激に溶け出している。温暖化はヒマラヤ流域国だけの問題ではない」。改めて各国が足並みをそろえるべきだと強調した。福田首相は「気候変動問題は洞爺湖サミットの重要案件。水サミットはG8サミットにもつながっていく」と話していた。
政治レベルでも現場レベルでも、温暖化による危機は極めて深刻な状況だった。その現実を直視し、改めて「皆で力を合わせて地球温暖化の被書を世界に訴えようじゃないか」と身が引き締まる思いであった。
2日間のサミットですべての案件が片づくわけもなく、開いた穴は小さいかもしれない。だが、この穴をどれだけ広げていけるか。私の新たな挑戰が始まったのだ。
水サミットを終えた会見後、記者から「野口さん、怒っていましたね」と言われた。確かに私はプルプルと怒りを抑えるのに必死だった。言葉を選んだつもりだったが、ごまかせなかったようだ。
私はこのサミットを「生きたサミット」にしたかった。しかし、部会に割り当てられた時問は2時間のみ。遠方から駆けつけたブータンのドルジ首相に与えられた発言時間はたったの2分だった。
せっかくヒマラヤ流域国の代表が集まり、温暖化の被害を世界に訴え、具体的な解決策を練ろうとしたのに、結局は儀礼的な挨拶ばかりに時間が割かれた。
他の部会では海面上昇で国土が失われている南太平洋・ニウエのビビアン首相が「いつまで話し合いばかりしてるんだ。毎年のように会議をしているのに、何も始まらない。私たちには時間がない。今、必要なのはアクションだ!」と激昂する一幕もあった。
私はもともとせっかちだが、活動の中で現場の惨状を目の当たりにすればするほど、もっとせっかちになる。ヒマラヤでは今も氷河が溶け出していて、このままでは2035年には消滅するともいわれている。時間がないのである。
日本の外務省の対応も残念だった。我々の部会への参加をお願いしたら「水サミットは外務省の案件ではないから」と断られた。各国の元首級が日本に集まってサミットを開催するのに、外務省の主催かどうかは大きな問題ではないはず。日本政府からは何一つ具体的な解決策が発せられなかった。
インドネシア・バリ島で開催された「国連気候変動枠組み条約締結国会議」(COP13)も同じである。合意文書案には温暖化ガス排出削減に閧する目標値が書き込まれていたが、米国は目標値の設定に抵抗し、削除を求めた。
一方、EUは明確な目標値が必要だと主張。日本はどうかといえば「合意が難しい目標値より枠組みをつくる方がいい」。相変わらずあいまいで米国寄りだった。政治家でも学者でもない私が無謀にも挑んだ「第1回アジア・太平洋水サミット」だったが、解決に向かってなかなか事が進まない現実に怒っていた。
2008年が始まった時、私はヒマラヤにいた。
アイランドピークの登頂を目指していたが、その前に高所順応をかねてクムジュン村や隣のクンデ村を散歩した。クンデ村で驚いたのが大規模な土石流の跡だ。朝日新聞でも報じられていたが、前年の7月10日にクンデ村で土石流が発生した。奇跡的に土砂は人家の間を抜けて流れ、人的被害はなかったが、田畑などが流された。村人によると裏山のクンビィラから水が流れてきて次に土砂が押し寄せてきたという。
クムジュン村のダワさんは「クンデでの土砂崩れは60年ぶり。昨年の夏は雨がたくさん降った。雨で山が緩んだのではないか。ここだけではなく、エベレスト街道の上の村では橋が流された。暖かくなってきて雨の量が増えた」と温暖化の影響ではないかと危惧していた。2007年の夏にダワさんと偶然にも八ヶ岳で出会っていたが、一緒に泊まった山小屋(オーレン小屋)で気候変動によるヒマラヤの天候の変化について話し合っていた。ダワさんは「いつからかヒマラヤの天気はおかしい。村の若い人はみんな温暖化の影響だと言っている」としきりに話していた。
対照的だったのが老婆のミンマドマさん。「神様の罰があたったんだよ。私の家は1階部分にまで土砂が入り込んできた。見てよ!」と家に案内してくれた。「夜に突然、水と土砂が流れてきてすぐに神様にお祈りしたよ。私は何も悪いことしていないよ! 私の家だけは守ってよ!」と叫んでいたという。「なぜ神様が怒ったの?」と聞くと、「それは分からないけれど、きっとみんなのお祈りが足りないんだよ。それにゴミを集めては燃やすようになったでしょ。あの煙のにおいに神様が怒ったのよ」と答えた。
以前はゴミを燃やさなかったシェルパの村々も、最近ではトレッカーなどの観光客が急激に増えて生活様式が大きく変化した。その結果、ゴミ問題が深刻化し最近になって焼却炉を作り、ゴミを燃やすようになったのだ。
しかし、村の年配層から「ヒマラヤでゴミを燃やすのは神様に失礼だ!」と反対の声があった。それに対して若者は「まずはゴミ問題を解決しなければならない。それに神様がゴミを燃やして怒るとは思わない。逆にゴミが散乱しでいる方が怒るでしょう」と意見が分かれていた。
朝日新聞(2007年11月26日付タ刊)では「7月10日深夜に集中豪雨があったことが、事前に調べた衛星画像と現地の観測データ双方で確認された。地球温暖化の影響は、豪雨や豪雪など極端な気象現象に強くでる」と名古屋大学の安成哲三教授のコメン卜が紹介されていた。
神様のお怒りか、それとも気候変動の影響か、村人の戸惑いは続いている。
ペリチェ村から口ブチェ村に向かう途中にトゥクラ村がある。到着して唖然としたのが、一軒の小屋が2007年夏の洪水によって流され跡形もなくなっていたことだ。洪水が起こる前の春、ガイドのアンドルジ・シェルパさんが撮影したトゥクラ村の写真をいただいたが、洪水後の写真と比較してみると川幅が倍近く拡大したことが分かる。
トゥクラ村に山小屋が2軒あり、そのうちの1軒は助かった。その山小屋の従業員のキタップ・シングライさん(26歳)は「前年の7月上旬の夜中に目の前の川(クンプ氷河から流れる川)が突然、氾濫を起こした。そして1週間後に再ぴ川が氾濫。水とともに大量の土砂が流れ込みトゥクラ村を襲ったんだ。全部で3回、洪水がやってきた。隣の山小屋が目の前で流されていった。私の小屋も振動で揺れて怖かった」と興奮しながら話してくれた。
キタップさんは「雨はそれほど降っていなかった。それなのに何で洪水が起きたのか分からないが、クンブ氷河の中の複数の水溜まりがーつになって、一気に流れてきたとも聞いている。ものすごい濁流だった。流れの勢いで私の頭以上の大きさの石が、私の山小屋周辺にまで飛んできたよ」と話してくれた。
流された方の山小屋は、 1992年に初めてヒマラヤを訪れたころから私が定宿にしてきた。ガイドのアンドルジ・シェルパさんに 「あの山小屋のおばさんは?」と確認したら、「彼女は助かって今はペリチェ村に住んでいる」と無事を確認しホッとしたが、しかし長年にわたり彼女が築いてきたあの山小屋を失い、今はどうしているのだろうかと気がかりであった。流された山小屋の主であるディキ・シェルパさん(44歳)は私のインタビューにこう答えた。「水と砂が一緒(土石流)になって何度も流れてきて、私の目の前でロッジが流されていった。何とか逃げることはできたけれども、少しのお金と少しの衣服だけしか口ッジから運び出せなかった。私には子供も土地もない。私にとってあのロッジがすべてだった。今はペリチェ村で喫茶店を借りてポーター相手に商売しているけれど、とても厳しいよ。私はすべてを失ったけれど、でも、いつかまたロッジを建てられるようになるまであきらめずに頑張るさ」
気丈に振る舞ってくれたのが唯一の救いでもあったが、頬はすっかりと痩せこけ目には涙が溜まり、疲労困憊しているのは明らかであった。そして対照的であったのがディンボチェ在住のソナムイシ・シェルパさん(60歳)だ。
「イムジャ氷河湖が決壊したら、この村は10分もしないうちにみんな流されてしまう。最近、外国人(日本人のことだろうと思われる)が決壊した時の警報器を設置したと聞いたが、そんなものに何の意味があるのだ!警報が鳴って逃げ出せたとしても、家も財産もすべて失ったらその先どうやって生きていけばいいのか。この村にも若い人が少ない。爺さんや婆さんばかりだよ。今からもう一度働いて家を建てることなどできるわけない!犬のように動物ならば体一つで生きていけるかもしれないが、私たちは人問だ。洪水で家が流されるぐらいならば一緒に流されて死んだ方がましだ! 政府は全く無関心だ。温暖化も私たちのせいではない。一体誰に訴えればいいのか。そこの積まれた石を見てごらん。若いシェルパたちが新しい家を建てるために運んできたが、洪水が起きてしまったらすべて流されるからしばらく様子を見ているんだよ。誰かがイムジャの水を抜くかもしれない。イムジャが安全になったら家を建てるんだと。それまで石は積まれたままさ。いつになったら家が建つのか、それともその前にこの村が流されてなくなってしまうのか。私はお金がないから危なくてもこの村に残るしかないよ」
彼は30分以上にわたって話し続けた。焦りからくる危機感と、また怒りをどこにぷつけていいのかも分からないのだろう。その蓄積された不満が一気に大爆発した。彼はしきりに「警報器は何の意味もない」と訴えていた。
それはあくまでも極論であって、私の解釈では「警報器のみでは意味がない」ということなのだろう。警報器は決壊などの緊急事態を、村人に一刻も早く知らせる手段である。だが、決壊そのものを防ぐものではない。「緊急避難」のための「警報器」と同時に必要不可欠となるのが決壊させない対策である。そのためには氷河湖の湖水を抜くのか、または氷河湖の壁面が崩れないように砂防技術などによって強化し決壊しないようにするのか、様々な方法があるのだろう。
それにしても、クンプ氷河には問題視されるほどの氷河湖はなかった。にもかかわらず、これだけの被書を引き起こした。仮にイムジャ氷河湖や世界最大級のツォ・ロルパ氷河湖が決壊したらどうなるのか。想像しただけで背筋がゾッとする。トゥクラ村に残きれた傷跡が、事が起きる前に何とか対応しなければならないと我々に訴えているかのようであった。
エベレスト街道でのトレッキングやイムジャ氷河湖の視察を終えた後、私はチャーターヘリで次の目的地であるロルパ氷河湖へ向かっていた。朝から力トマンズは濃い霧に包まれ、ヘリがルクラ村にやってきたのは正午を過ぎたころ。それからヘリに乗り込み、ロルパ氷河湖がある口ールワリング地方へ飛ぶ。着陸する前にロルパ氷河湖の空撮をしたいので、氷河湖上空を何周かしてほしいとパイロットにお願いした。ネパールも燃料代が日本並みに高騰(1リットル80ルピー。150~160円)していたため、かなりの高額を要求された。一瞬悩みもしたが、ここまできてケチってはいけない。世界中の現場を訪れるために、日々日本で仕事をしているんじゃないかと自身を説得した。
午後1時、ルクラ村を離陸。重量が重いと5000メートルを超える高所までヘリが上がれないため、途中のシミガオン村で帰りの燃料タンクを下ろす。そこで突然のヘリ到着に村人が驚いて集まってきた。 エベレスト街道と違って外国人慣れしていない村人の様子が新鮮でもあった。
シミガオン村を飛ぴ立ち、約15分でロルパ氷河湖が姿を現した。12年前の夏に一度訪れたことがあるロルパ氷河湖。夏は氷河が溶け出して水位があふれんばかりであったが、今回は冬とあって湖面の大半が凍りついていた。しかし、それでも世界最大級だけあってその巨大さにしばし呆然と眺めてしまう。慌てて力メラを出して撮影を始めた。何しろパイロットが「風が強いからすぐに戻りたい」と言い出し、5周ほど飛んでもらえるのかと思いきや2周までとなった。
ロルパ氷河湖は標高4580メートル。長さ3.5キロ、幅0.5キロ、水深132メートル(朝日新聞2007年11月25日付朝刊による)。約50年前に氷河湖として形成されたという。長年にわたって私のヒマラヤ登山をサポートしてくれたダワ・タシ・シェルパさん(42歳)は、ロルパ氷河湖の下流約10キ口にあるベディン村の出身だ。ダワ・タシさんがしきりに「イムジャ氷河湖も危ないかもしれないが、私の地元のロルパ氷河湖の方がもっと危ないよ」と私に訴えていた。氷河湖の空撮を終えベディン村に着陸。ここからは徒歩でロルパ氷河湖を目指す。
ベディン村ではダワ・タシ・シェルパさんの従兄にあたるナワン・チクリン・シエルパさん(52歳)と合流した。ナワンさんはネパール科学技術省からロルパ湖水を中心にした氷河湖の水位や、周辺の氷河の融解の状況、雨量などの調査を依託されていた。また、日本語が達者なので、名古屋大学や慶慝大学の調査隊にも加わったことがある。2007年、朝日新聞の連載特集「地球異変」にも通訳兼ガイドとして取材に参加している。ロルパ氷河湖のスペシャリストであると同時に、ベディン村のお寺のお坊さんでもある宗教家だ。
そのナワンさんにロルパ氷河湖の拡大について質問してみた。
「私が子供のころは、とても小さな池だった。その小さな池の水に映る自分の顔を見て遊んだり、時には泳いだこともあった。しかし、いつからか急激に大きくなりだし、今では決壊の恐怖に怯えるようになった。氷河湖の決壊が怖くて多くの村人が首都の力トマンズに移り住んでいる。お金があれば移住もできるが、私たちのような老人はお金がないからここにいるしかない。村には年寄りばかりが取り残されたよ。
1990年代の半ばにドイツやオランダから援助をしてもらって氷河湖の側面に穴を開けて水を流したがうまくいかなかった。そして2000年には世界銀行の援助で氷河湖に水門をつけ、水位を5メートル下げようとしたが、下がったのは3メートルまで。まだまだ十分ではない。そして氷河が溶け続けている。このままだと水位はまた上がるでしょう。今はーつしかない水門を複数にしないと夏は問に合わなくなる。もし、氷河湖が決壊すれば私の村(ベディン)は15分もかからずに洪水に流されてしまうでしょう」と話し、また「私は坊主です。ラマ教の教えでは人が悪いことをしたら神様が怒って自然災害を起こす。悪いことをしているからロルパ氷河湖が壊れそうなんだ」とも語ってくれた。
私はあえて「ロールワリング地方の村人はそんなに悪行を重ねているのですか?」と質問をしてみた。
それに対して「いや、村人ではない。例えぱ中国人が近くの山の上にアンテナ(携帯電話などの通信用と思われる)を建てているが、あれが良くない。山の上は神聖な場所だ。1980年には日本人が神様の山であるガウリサンガァール(神様の名前)峰に登頂した。日本隊が帰った後にベディン村の周辺で洪水が起きたんだよ」とお坊さんとしてのご意見も聞かせていただいた。
また、温室効果ガスの排出などが温暖化や気候変動の原因となる科学的根拠について伺うと、「う~ん」と困った顔をしながらも、なかなか説得力のある答えが返ってきた。
「宗教も大半は正しいが時に間違える。科学も正しいかもしれないが、間違える時もある。宗教も科学も矛盾があるということさ」
その後、ナワンさんとダワ・タシさんの案内で氷河の視察を行った。国連環境計画(UNEP)や国際総合山岳開発センター(ICIMOD)の報告は、5年から10年の間にネパールにある2323氷河湖のうち20以上の氷河湖が決壊のおそれがあると警告している。その中でも特に決壊の危険性があるのが、世界最大級のロルパ氷河湖だという。世界自然保護基金(WWF)の報告はさらに深刻で、このままの加速で氷河が融解し続ければ、2035年にはヒマラヤ山脈の氷河のすぺてがなくなるおそれがあると警告している。
12年前に訪れた時には、北海道大学の元助教授である山田知充先生が、ヒマラヤの氷河湖(主にイムジャ氷河湖、ロルパ氷河湖)を調査し、氷河湖の拡大や決壊の要因、その可能性などを調べておられた。彼が気候変動によるヒマラヤ氷河の融解、氷河湖の決壊の事実をいち早く世界に示していたのである。
後に在ネパール日本国特命全権大使(当時)の伊藤忠一さんから「私がネパールで大使をやっている時、山田先生から氷河の融解について初めて報告がありました。外務省としてもJICAなどに氷河湖の調査を依頼しましたが、ネパール政府からの要請がなく、調査以上のことはできなかった。これからは調査から、具体的な対応策に移る時期ではないでしょうか」とお話をいただいていた。
ロルパ氷河湖に向かって一歩一歩歩きながら、そんな出来事を一つ一つ思い出していた。当時はまさかこういう形で口ルパ氷河湖やイムジャ氷河湖とかかわるなどと考えもしていなかった。分からないものだ。
ロルパ氷河湖には、夏の時期に水門の管理や水位の調査をするため、3名のスタッフが常駐するステーションが建てられていた。その水門によって水位が3メートル下がり、12年前にはあふれそうだった氷河湖が、だいぷ落ち着いている様子に見えた。しかし、ナワンさんは「今は冬ですが、夏になるとまた水位が上がる。水門一つでは間に合わなくなるでしょう。また、氷河が崩れてその氷の塊が氷河湖に落ちてきたら、その勢いで一気にロルパ氷河湖は決壊するでしょう」と懸念していた。
現場でナワンさんに懸念材料を一つ一つ説明されたが、私の印象では水門によって水位がだいぶコントロールされているように見えた。同じような水門をイムジャ氷河湖に設置できないものだろうか。
2008年1月、福田康夫首相(当時)は「世界経済フォーラムの年次稔会」(ダボス会議)に出席し、温暖化対策として5年問で總額100億ドル規模を途上国に支援する枠組みを発表した。その中に気候変動によるヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊対策を含めることができないだろうかと考えていた。そのためには、伊藤大使がおっしゃっていたようにネパール政府サイドの氷河湖問題に対する真剣な姿勢が必要不可欠だ。
例えば海面上昇に苦しむツバルは、2000年9月5日国連に加盟し、元首自身が国をあげて、海面上昇による自国の危機を世界中にアピールするようになった。国連総会やドナー国(資金を出してくれそうな国々)に直接訴え、各国の担当大臣やメジャーな人物を招聘し、アピール大作戰を展開。先に述べた水サミットでも福田総理(当時)に直接訴え、その結果、2008年1月には鴨下環境大臣(当時)がツバルの視察に出かけている。2007年は石原都知事、その前年には小池環境大臣(当時)もツバルに出かけている。そのおかげで日本のマスコミでもツバルの海面上昇が大きく取り上げられ、多くの日本国民もツバルの存在、また海面上昇の披害を認識するようになった。
また2002年には高潮被害などが頻発したことに対し、ツバル政府が地球温暖化による海面上昇で国土が水没の危機にあるとして、温暖化対策に消極的な米国、豪州を相手に、国連の司法機関・国際司法裁判所(オランダ・ハーグ)に訴訟を起こした。消極的な国々に対して、法の効力を最大限活用し積極的に世界に訴え続けている。話題を欠かさないのが最大の武器だ。
それに比ベネパール、またブータンなどは氷河湖問題を国の最優先課題にしていないところが、最大のネックである。 コイララ・ネパール首相に面会した際に「日本政府に氷河湖対策を要請してください」とお願いし、その後にようやくネパール政府から日本政府に正式に要請があった程度だ。長らく内戰に明け暮れ、氷河湖問題よりも内政問題が人々の関心事だ。しかも2008年に初の大統領選挙が行われ、コイララ首相は辞任してしまった。また、ブータンも民主化したばかりで、氷河湖対策にまで手が回らないのが現状だ。
2007年ツラギ氷河湖
その後私はタンナ村まで下った。ここは1998年9月3日、午前5時に村のすぐ上部にあるサバイ氷河湖(地元名・タン湖)が決壊し、村の一部が流された。放牧地がその面影を残さず、まるで軽井沢の「鬼押出」のような様相に変わっていた。
決壊前に何度も訪れたことのあるタンナは、村一帯が青々とした牧草地で、特に夏は放牧用の村として知られている。昔はロッジなど一軒もなく、夏はヤク使いからヤクの新鮮なミルクやバターをいただいていた。また、ジャガイモ畑が村中にあり、シェルパのリアルカルチャーを感じられるほのぼのとした世界であった。しかし、メラピーク登山が注目されるにつれて、外国人トレッカーや登山隊が増え、今ではルクラ村からメラピークのベースキャンプ(カーレ)まで、まるで工ベレスト街道を連想させるかのように至る所に口ッジが建てられている。
タンナ村から見ると、ちょっとした丘のような山の奥にサバイ氷河湖があったが、決壊とともにその山が真っ二つに割れ、V字形に削られた。そこから水と一緒に土砂が何度も繰り返してタンナ村に襲いかかってきたという。
爆音とともに岩が擦れる時に発する異臭に驚き、慌てて家を飛び出したラクパ・ギャルゼン・シェルパさん(30歳)は嘆いていた。
「12時間ほど時間をかけて、何度もゆっくりと土石流が流れてきた。音が大きくて怖かった。また岩が擦れるにおいが臭くて、吐き気がした。私の兄の口ッジが目の前で流されていくのを、ただただ黙って見守るしかなかった。兄は全ての財産を失ってルクラ村に戻ったが、生きる希望を失ったのか心の病に冒され、いまだに社会復帰できていない。引きこもり状態で家族を養えていないんだ。一日も早く元の兄に戻ることを祈るばかりだ。私もジャガイモ畑を持っていたが、今も土砂に埋まっている。この地では二度とジャガイモ畑はできないだろう。温暖化の影響で氷河が溶け出し、氷河湖の決壊がネパールでも増えていると聞くけれど、私たちには何もできない。運命として受け入れるだけ」
翌日、タンナ村を離れ、下流約5キ口のコテ村まで下った。川岸の道程には土砂とともに巨大な岩が押し流されてきており、歩行困難な状態であった。改めて水の破壊力を思い知らされた。朝日新聞(2007年12月8日付タ刊)によれば、サバイ氷河湖の貯水量は1700万立方メートル。 工ベレスト街道上部にあるイムジャ氷河湖は直径1キロ、深さ約90メートルにも達し、約3580万トンの水を貯水しているという。
サバイ湖決壊時の写真(ラクパ・ギャルゼン・シェルパさん撮影)
日本人に分かりやすく説明するならば、東京ドーム32杯分ということになる。サバイ氷河湖よりもイムジャ氷河湖の方がはるかに巨大で、もしイムジャ氷河湖が決壊すれば、サバイ氷河湖決壞時の被害(死者2名・橋が5つ流された)では済まされない。サバイ氷河湖の下流には大きな村がなく、人的被害は極めて限定的であった。もし数万人が生活し行き来する工ベレスト街道の上流での決壊となれば、その被害は想像しただけでもゾッとさせられた。
サバイ氷河湖決壊は水の破壊力を改めて私たちに知らしめた。この自然の警告を私たちは謙虚に受け止めそして敏感に察知し、そして大胆な決壊対策のアクションを早急に起こさなければならないだろう。国際総合山岳開発センターの発表では、仮にイムジャ氷河湖が決壊すれば下流7.5キロのディンボチェは決壊から14分後に土石流に襲われ、さらにこの湖から14キロ下流にあるパンボチェ村には21分後に土石流がやってくるという。エベレスト街道の玄関口であるルクラ村まで、1時間で土石流が届くと指摘する日本の学者の先生方もいる。
いつ決壊するかも分からない氷河湖。
「野口健は危機感を煽りすぎだ」と指摘する日本の專門家の方々もいらっしゃるようだが、もし自らがお住まいの家の上流に、いつ決壊するか分からない巨大な氷河湖を抱えていても同じ考えでいられるのだろうか。
イムジャ氷河湖などの実態は多くの学者によって様々な指摘がなされてきたが、私を含めその閧係者のほとんどは地元民ではない。したがって、よほど運が悪くないかぎり氷河湖が決壊する瞬間にその場に居合わせることもないだろう。仮にイムジャ氷河湖が決壤したとしても、自らの生命財産を失うわけではないのだ。
しかし、村人は違う。仮にイムジャ氷河湖が決壊すれば、エベレスト街道沿いの村々の多くが、あのサバイ湖決壊によって辺り一面がひどくえぐられ、跡形もなく流されてしまった以上の被害を受け、そして多くの人々が一瞬にしてこの世から姿を消すだろう。
学者の先生方も含む我々は、あくまでも安全な場所からやってきて、イムジャ氷河湖を含めた氷河湖の拡大が及ぼす決壊の危険性や、想定される被害、また決壊させないための対応策についてあれこれ訴えているにすぎず、「他人事」と言っでしまえば他人事なのである。
私はヒマラヤで多くの村人の声を集めてきたが、皆異口同音に「地球温暖化はシェルパのせいではない。氷河湖の水を抜いてほしい。早く安心して生活がしたい」と訴えていた。「当事者」からすれぱ、とにかく早くアクションを起こしてほしいのだ。
怯えて過ごす人々の生活を目の当たりにし、待ったなしの状況であると自身に言い聞かせ、この現場の声をどのように届けられるのか。声を上げるのが現場を知っでいる人間の責任であり義務でもあるのだ。