厳しい挑戦だった。山頂へいつアタックするのか、そのタイミングを決断するのにとても悩んだ。雪が止んだかと思えば強風に見舞われ、その風が止めば再び雪がどかっと降る。晴天、快晴無風が中続きしない。悪天候と悪天候の限られた隙間を狙うしかない。当然、なにかが1つでもずれれば、上部で悪天候につかまってしまう。確かに、ヒマラヤ遠征は慎重でなければならない。しかし、慎重なだけではこのような状況下ではなかなか登頂できない。慎重さと同時に大胆さも求められる。その比重がどちらかに傾いてもいけない。バランスを崩せば遭難につながる。紙一重だった。

 荒れたのはシシャパンマだけじゃない。エベレストやチョーオユ、またマナスルでも同じ。皆、苦戦していた。エベレストは5月中旬になっても誰一人登頂していなかった。8000M峰としては比較的、登りやすいと言われているチョーオユでさえも、その頃登頂者は10人にも満たず、そのうち半数近くが凍傷により指の切断を余儀なくされた。マナスルでは、全ての登山隊が敗退。登頂者はゼロ。近年にない大荒れのヒマラヤであった。

 シシャパンマでも山頂アタックをかけずに撤退していく隊が相次いだ。強風に吹かれ続けると、精神的にもまいってくる。嫌気をさしてBCを後にしていく欧米人登山家を横目に、正直、「俺も帰りたいなぁ~」と感じていた。ただ、ヒマラヤ登山は長丁場だ。気長に構えなければならない。悪天候の中でどれだけ辛抱できるのか、そこにかかっている。じっとタイミングを待つ勇気と忍耐。ABC(前進基地)で10日間待機した。そして上部キャンプ(キャンプ2)でも悪天候につかまり、撤退するのかしないのか、特に6800mという高所での待機は体力、精神力共に追い詰められていた。最後は「とにかく山頂アタックはかけよう!それでダメならしょうがない。ヒマラヤとはそんなものだ」と自身に言い聞かせ、5月16日、午前4時30分、最終キャンプからアタック開始。腹をくくった。
  
 2002年のシシャパンマ敗北、そしてその敗北が1つのきっかけとなり、所属事務所からの独立から始まりこの2年間は時にピンチ、しかしがむしゃらに走り続けアルピニストとしての自分のスタイルを取り戻した時期でもあった。前回のシシャパンマ敗北は私に大きな試練を与えてくれた。そんな数々の出来事を振り返りながら、こうして再びシシャパンマに戻ってこられたことに感謝した。

 日本を発つ前には「いまさら、ヒマラヤに戻る必要もないだろう。これでまた失敗したら印象が悪くなる。もう8000m峰には登れないから、清掃登山を始めたと陰口をたたく人もいるんだから」と忠告をしてくれる人もいた。
 別に記録がかかっているわけでもなく、無酸素で登る登山家もいるなかで私は酸素の助けを得ていたわけです。斬新な登山方法でもなく、あくまでも私自身の「シシャパンマで作った借りはシシャパンマでしか返せない」という思いと、失敗を失敗のまま放置したくない、そしてこのシシャパンマという壁の向こうには新たな挑戦が控えている、まずは目の前の壁をクリアしなければならない。そして次の挑戦に繋げる、その為にもシシャパンマ再挑戦は避けられなかった。1つの挑戦が終わればまた次の挑戦に繋いでいく、その積み重ね、そのトータルこそが、人生という名の作品だと思う。作品の完成に向けレンガを1つずつコツコツと積み重ねていく地道な取り組みの延長線上に結果がある。私はこのコツコツが大好きだ。

 シシャパンマのアタックで私は1つのミスを犯した。最終キャンプから片道5時間、帰路は2時間ほどだろうと、推測し、2本の酸素ボンベを用意し、アタック開始。あと、残り2時間ほどで山頂だろうと思われた場所に帰り用の酸素ボンベを置き、下山中に回収し一本目と交換して最終キャンプまで下ろうと考えたが、しかし、実際はその酸素ボンベを置いた場所から山頂まで3時間以上もかかってしまった。目の錯覚だったのか、近くに見えていた山頂がジグザグ登っていた為か、近づかない。そして岩場には新しく張られたフィックスロープと古いロープがこんがり合い、グチャグチャになっていた為、部分的に解きながら、進んでいたためなかなか進めなかった。そしてついに山頂直下の稜線に差し掛かった辺りで酸素が底をついてしまった。最後の稜線はナイフブリッジで人一人がやっと通れる幅で、両サイドがスパンと切れ落ちており、つまずけばそのまま滑落する。酸欠で朦朧としながらも、一歩一歩慎重に可能な限り全神経を集中させながら歩いた。12時30分、予定より大幅に遅れて念願の山頂にたった。山頂は一人立つのがやっとの狭い場所だった。

 そこからの光景はチベット側がまっ平らで、草木もなくまるで火星か月面のような色をし、まったく生命を感じられなかった。その反面、ネパール側は山々が連なり、うっすらと緑も見られ、「あ~命あふれるネパールに早く帰りたい」と感じた。 無線機を取り出しABC(前進基地)で待機していたサーダ(シェルパ頭)のダワ・タシに連絡したら、「ボラサーブ(旦那)、サクセス(成功)、ここから見えるよ!おめでとう!」と、彼のサクセスという言葉を聞いて「ああ、俺は登ったんだ。やっと登ったんだ」と思わず涙声になってしまい、まともに会話ができなかった。

  下山中は天候が悪化し、酸欠と疲労からか、睡魔に襲われた。デポした酸素ボンベの場所までなんとか無酸素のまま下山しなければならない。舌を軽く噛みながら寝ないように睡魔と闘うものの、頭の中は酸素のことしかなかった。気がつけば「酸素!酸素!」と叫んでいる。そして無意識のうちに酸素マスクに噛り付いている自分に気がついた。その頃からしばらく記憶が定かでない。フィックスロープに体を巻きつけたまま、斜面を何度か滑り落ちたと後から聞いた。山頂アタック中に酸素を切らす、これはもっともやってはいけないこと。

 このミスでどれだけ多くの登山家がヒマラヤで命を落としたことか。今年もエベレスト(チベット側)でロシア人登山家が山頂直下で酸素がきれ、しゃがんだまま凍死している。フラフラしながらも、シェルパに助けられながら、なんとか酸素ボンベのあるところまで自力で歩けたから助かったものの、紙一重だった。4時過ぎ、ヘロヘロになりながらも無事に最終キャンプに到着してからは、猛烈な吐き気に襲われ吐き続けた。2日まえから食べ物はほとんど口にしていなかったから、胃液しかでなかったが、吐き続けているうちの雪面が赤く染まった。酸素を切らした分だけ、体のダメージは大きかった。夜は苦痛でほとんど一睡も出来ず、次の日もフラフラになりながらABCへと下山した。

 正直、内容は良くなかった。反省材料も多いが、次の挑戦まで足りない部分を補っていけばいい。シシャパンマの頂で私ははっきりと見えたものがある。それは日本隊が初登頂したマナスル峰での清掃活動である。現地では「ジャパニーズ・マウンテン」と呼ばれているマナスルが登山隊によって汚されているという。そして来年、初登頂から50年目を迎えるマナスル。再びシェルパ達と命を賭けながらごみと格闘する。そして初登頂から50年目に再びマナスルの山頂に日の丸を掲げている自分の姿を無意識のうちに想像していた。夢が繋がった瞬間であった。

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