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スイスアルプス挑戦記 , 自己責任と危機管理

ブライトホルン挑戦を振り返って

スイスアルプス挑戦記 , 自己責任と危機管理

2006/12/21

ブライトホルン挑戦を振り返って

昨年9月、私宛に内田清司さん(44)からお手紙を頂いた。内田さんのお手紙は大学生だった頃に交通事故で脊椎を損傷し下半身麻痺になってしまったこと、寝たきりの生活の中で生きていく事の意味を思い悩んだ日々、そしてその中から1つの目標を見つけ挑戦していきたいと、といった事が書かれてあった。その夢とはヨーロッパ・アルプスのブライトホルン(4164 M )登山。入院中に病室に掛けられてあったアルプスの写真を眺めながら「自分もいつかあの美しいアルプスの頂に登ってみたい」と夢がスタートした。そして手紙の最後に「登山隊長として一緒にブライトホルンに登ってください」と書かれてあり、正直、驚き、また困ってしまった。なにしろ内田さんとは一面識もなく、また障害者を4000 M 峰に登らせることが果たして出来るのか、またそのリスクが大きすぎる。手紙を読みながら内田さんに会うべきか悩んでいたが、しかし、文章の最後の方に「日本は障害者が挑戦することに消極的」と書かれてあり、その一文で登山隊長を引き受けることを決めていた。

 エベレストでは毎年のように様々な障害者が挑戦する。盲目の方、両足が義足の方、末期癌の方など、彼らは健常者の登山仲間のサポートを得ながらそのハンディを乗り越えエベレスト登頂を果たしている。2002年には癌を宣告された同年代のアメリカ人登山家が残りの人生を賭け世界最高峰に挑んだ。片方しかない肺で苦しそうに高所で氷壁を登る姿から正直、登頂は厳しいだろうと感じていたが、ゼェーゼェーしながら「ケン、エベレストに登ってアメリカにいる小児癌に侵されて子供達に勇気と希望を与えたいんだ」との言葉を聴いたときには心から彼こそ真の冒険家だと尊敬し心から応援していた。そしてハンディを乗り越えエベレスト登頂を果たした。ベースキャンプで再会した時は抱き合って喜び合った。

 それに比べ日本では障害者による冒険は少ない。内田さんのお手紙にも周りの関係者から「責任が取れないから応援出来ない」と断れ続けている様子が書かれてあった。内田さんとの登山を成功させれば、日本でも障害者の方々が、後に続けと各分野で活躍するきっかけになるかもしれない。

 そしてこの登山隊にもう一人の仲間が加わった。内田さんの友人の高校生。進行性筋ジストロフィーを患う井出今日我君(16才)だ。進行性の病で最終的には心臓の筋肉まで衰えさせてしまう。医師からは「低酸素の高所では体に負担が大きすぎる。5年は寿命が短くなる可能性があることは覚悟するように」と伝えられていたようだが、それでも井出君は「一度の人生、思いっきり生きたい」と挑戦を決断。今日我(きょうが)という名前は「今を生きる」という意味。その名前通り、井出君は今を必死に生きようとしていた。

 8月にブライトホルン挑戦を決め、国内でのトレーニングと莫大な資金がかかるためスポンサー活動を開始。トレーニングは雪のないスキー場で内田さん達に橇に乗っていただき牽く練習を繰り返した。体力的に厳しいトレーニングだったが、最年長の井出君のお父さんが一番大きな声を出しながら汗だくになりながら橇を引き続けている姿に、この親子の冒険を見守りサポートしたいと心底感じていた。一方、スポンサー活動は苦戦していた。特に内田さんや井出君にとってはスポンサー活動もマスコミ対応もすべて始めて。どこから初めていいのか分からないようで、私も4月からヒマラヤ・マナスル峰への遠征に出かけてしまい協力できないでいた。ヒマラヤ登山を終え6月に帰国した時点でも遠征費の大半が集まっていなかった。内田さん達は借金をしてでも挑戦をすると話していたが、せめてサポートする登山隊隊員にかかる交通費などは自分達で集めようと遅れてスポンサー活動を始めたらコスモ石油の鴇田広報室長が「意味のある活動です。協力させてください」と困り果てていた私達を救ってくれた。

 おかげで8月2日に私達登山隊はブライトホルンのあるスイス入りした。しかし、毎日が大雨。地元ガイドは「今年は温度が高く氷河もクレパスだらけ。既にこの夏何人かクレバスに滑落している」と障害者を連れて行く登山活動に消極的だった。吹雪の中、訓練しようと2人を橇に乗せて引っ張るのだが、地元ガイドの一人が「リスクが高すぎる」と帰ってしまった。悪天候の中、登山開始が出来ず不安とイライラがたまり、内田さんたちのサポートメンバーからは「必ずしも山頂を目指す必要はない」「内田さんの体調が心配だ」などといった弱気な意見もでた。また私が日本から連れて行ったヒマラヤ経験者がズラリとならぶ登山隊員からは「内田さん達は現場まできてなにを迷っているのか。リスクがあるのは日本を離れる前から分かっていたはず。彼らが判断できないなら隊長であるあなたが判断するべき」といった意見がでるなど、登山隊が二つに分かれていた。しかし、私は隊長として登頂するまでのサポートはするが「ああせよ」「こうせよ」と言わないことに決めていた。初めての冒険で焦りや戸惑いがでるのは当たり前だ。ヒマラヤでも登山隊員同士の意見が別れ喧嘩することもある。その中で大切な事は内田さん達が決めた冒険であり、何ゆえに冒険しようとしたのか、自分達で原点に戻ること。原点を見失ったまま冒険を続ければ危険だし、そもそも何のために尊い命を賭けてまで行うのか意味がなくなる。毎晩、皆が納得するまで何時間でもミーティングを繰り返し、最終的には全員が全力を尽くし、到達した地点を「みんなの山頂」にしようと意見を統一させた。

 4日ほど悪天候で待機を余儀なくされ、山頂アタックは最終日までずれ込んだ。晴天とまでいかないものの雲の合間に空が見え、よし!最後のチャンス!とアタック開始と、われわれは内田さん、井出君と一緒に登山開始。しかし、午後が近づくにつれ風も強くなり、厳しい登山が続いた。4000 M を越えると橇を引いているほうも高度障害の影響が出始め、頭痛に襲われた。それでも一心不乱、みな必死に橇を引き続けた。そしてついに正午過ぎ、時間切れ。4000 M を越えた地点が我々の山頂となった。色々あったが、最後は皆が一つになれた。確かにリスクはあったが、健常者でも山では遭難することがある。リスクはなにも障害者に限ったことではない。そして内田さん、井出君が命を賭けてでも伝えたかった、障害を背負っても精一杯生きる姿がそこにはあった。

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