戦争 , 遺骨調査・収集

2008/06/08

知覧を訪れて

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 今年 3 月にフィリピン・セブ島で行われた遺骨調査団(空援隊による活動)に参加し未だに洞窟や住宅街の地中に眠る遺骨との対面を果たした。日本に帰国し方々でかつての戦地に遺骨がいまだに放置され続けている現状を訴えてきた。驚いたのが、その多くの反応は遺骨に関してあまりにも無関心であり、いやそれどころか「あの戦争は悪だった。侵略者側の遺骨を丁寧に収集する必要などない」などといった同胞からの意見に私は怒り、またたまらく虚しかった。そういった反応に胸が押し潰されそうになりながら、また同時にこれは人生を賭けてでも遣り遂げなければならないと心に硬く誓っていた。

 セブ島で我々が発見した約300体もの遺骨があった現場に、ついに厚生省が遺骨調査団を発見する事が決定。これは大変嬉しい知らせだった。私は特に霊感の強いほうではない。しかし、その洞窟を後にする際、後ろ髪を引かれる思いで振り返った時、「もう帰ってしまうのですか。私達はここで60年間ずっとずっと待っていました。それなのに貴方方はもう帰ってしまうのですか」との英霊達の魂の声が私には確かに聞こえた。「もうすぐで日本政府の迎えがやってきます。もう少しの辛抱です。本当に申し訳ございません」と一礼して現場を後にしなければならなかった。

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洞窟内に残されたご遺骨 なお遺骨調査の野口健メッセージは下記からご覧ください。
「遺骨調査団に参加して」

政府からの遺骨収集団でなければ遺骨を持ち帰れないのだ。我々(空援隊)に出来る事は何処に遺骨があるのかを調査し、その調査結果を厚生省にお知らせすること。もし仮に厚生省が動かなければ遺骨があることが分かっていながらも手も足もだせない。そのもどかしさにどう耐えればいいのか私にはその自信がない。もし仮に国が動かなければ、例え違法行為であろうが英霊達と共に日本に帰りたいと願い、それを決行する行為に私はなんら違和感を抱かない。

 それだけにこの度、厚生省の調査団派遣の決定には心から嬉しかった。彼らは国の為に死んだ。国には、現地に赴き彼らを祖国にお迎えする責任がある。私はこの10月に再び遺骨調査の為にフィリピンに向かう。前回発見した遺骨がちゃんと収集されたのか、また新たな遺骨を1つでも多く探し出したい。この春のヒマラヤ遠征中も私の頭からはあの洞窟の中の光景が離れなかった。今こうして原稿を書いている時も目をつぶると、あの真っ暗な洞窟の中で、その一面に散乱していた遺骨の山が見える。

 ヒマラヤから帰国し私はすぐに空援隊の本部がある京都に向かった。空援隊の倉田宇山さんと次回の遺骨調査の打ち合わせを行った。そして先日、以前から訪れたかった九州・鹿児島の知覧に向かった。知覧は戦局の悪化により打開策として大西中将らによって「神風(じんぷう)特別攻撃隊」が発案された特攻機の発信基地があった地。零戦などに250キロ爆弾を抱かせて敵艦隊に体当たりさせるという生還手段絶無の攻撃方法であった。指揮官であり攻撃を命じた大西中将ですら自ら「統率の外道」と言わしめたが、日本はそれだけ追い詰められながらも戦争を継続していた。日本本土を米軍機による空襲から守るためにはフィリピンは是が非でも死守しなければならなかった(フィリピンからなら米軍機の飛行距離が日本空襲を可能にするため)。特攻は昭和19年10月20日のフィリピン・レイテ沖海戦において初めて決行され、終戦までに約7000名の兵士が祖国に命を捧げた。(ただし一部に終戦直後に独自の判断として特攻したケースもある。宇垣纏中将率いる彗星爆撃機11機、また満州の国境に迫ってくるソ連軍の戦車に妻を98式直協偵察機に同上させ特攻した谷藤徹夫少尉など)

 終戦翌日、航空特攻の「生みの親」となった大西中将は割腹自殺した。軍医が駆け付けた時には腸が飛び出しもはや手のほどこしもなかった。苦しむも最後まで介錯を断り「これで送り出した部下たちへの責任をとれる」と特攻隊員の後を追った。残された遺書には「特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり 深謝す。最後に勝利を信じつつ肉弾として散華せり。然れども其の信念はついに達成し得ざるに至れり。われ死をもって旧部下の英霊とその遺族に謝せんとす」と書き残されていた。

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知覧特攻平和記念館にて 遺書を読む野口

 その神風特別攻撃隊の発進基地の1つが鹿児島県の知覧町。その知覧町には「知覧特攻平和会館」がある。館内には特別攻撃隊員の遺影や遺品、遺書、また記録映像などの資料がある。私はどうしても、祖国と決別し最後の地となったこの知覧で、特攻隊員が最後になにを想い出撃していったのかを感じてみたかった。戦後生まれの私には戦争の本当の姿は知らない。あるのはほんの少しの知識のみ。それだけに現場に訪れる事によって少しでも頭ではなく心で戦争を感じる必要があった。

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 展示してある数々の遺書の一枚一枚を噛みしめるように拝読したが、これから戦地に出撃する兵士の殺気なようなものは感じられない。そこにあるのは限られた残りわずかな命を精一杯生きようとする少年たちの姿であり、また彼らが命を捨てでも守ろうとした家族に向けられた愛情、特に少年飛行兵は母親に対する思いの強さが伝わってきた。そして「自分が死んだ後の日本を託しました」と、言葉を変えれば自身の死を無駄死にしてくれるなよと!との最後のメッセージであったように感じられた。

 印象的であったのが出撃2時間前に子犬を抱いた17歳から18歳の少年飛行兵達のなんとも純粋無垢な笑顔であった。記録には「犬好きの荒木伍長(17歳)は子犬のつぶらな瞳を見てたまらなく愛おしくなり、抱き上げて頬ずりした。このとき、小さいながらもこの世に生きるものへの切ない惜別の情を感じていたのだろう。そこに、仲間の少年飛行兵たちがやって来て、やや恐れた様子の子犬に「おい、チビちゃん、元気だせよ」「大きくなれよ、チビちゃん」と口ぐちに声を掛けた。荒木伍長を中心に笑顔が並び、出撃を2時間後に控えているとはとても思えないほど朗らかな五人の姿があった」とその時の様子が紹介されていた。

 また別の記録には「出撃を前にした夜に隊員達は宴会を開いた。最初は賑やかに楽しく酒を酌み交わしていたが、酒の量が増すうちに、隊員の中には故郷が遠くて家族との暇乞いができなかったことへの心残りを抱いたり、死に直面して恐怖を感じたりして、涙する者もいた。高橋峯好伍長(17歳)も、そのうちの一人。心との葛藤の末、涙を流す隊員たちを内務班長の西川信儀軍曹がなだめすかして寝床に入れた」と死を目前に死の恐怖、孤独に震え、家族の元へ駆けつけ母親に抱きつき思いっきり甘えたかっただろうに、10代の少年が背負うにはあまりにも酷で残酷な現実がそこにはあった。彼らは昭和20年(1945年)5月27日に出撃し沖縄南部にて戦死。

 そして遺書の多くには「有難い母 尊い母 俺は幸福だった。遂に最後まで「お母さん」と呼ばざるし俺  幾度か思ひ切つて呼ばんとしたが何と意志薄弱な俺だつたらう 母上 お許しください さぞ寂しかったでせう 今こそ大声で呼ばして頂きます お母さん お母さん お母さん と。」「お優しい、日本一の御母様。今日、トランプの占いをしたならば、御母さんが一番よくて、将来、最も幸福な日を送ることが出来るそうです。」「お母さんお元気で でっかい奴を沈めます」「お母さん お母さん 今俺は征く 母を呼べば母は山を越えてでも雲の彼方からでも馳せ来る 母はいい 母ほど有難いものはない 母!母!」「我が家なつかしい思い出の 読んだやさしい母の声」「いよいよ此の世とお別れです。お母さん必ず立派に体当り致します。昭和二十年五二十五日八時。これが空母に突入する時です。では、お母さん、私は笑って元気で征きます。お母さんお体大切に。私は最後にお母さんが何時も言われる御念佛を唱えながら空母に突入します。」と母親に対する愛情、そして今生のお別れの言葉が綴られていた。

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 私は彼らの最後の言葉をノートに書き写していたら、涙で目が霞み文字が見えなくなってしまった。10代で死を覚悟しなければならなかった彼らの無念を想えば、今こうして平和な日本があるのは、彼らの犠牲の上にあるんだということを決して忘れては決してならない。

 ある方の話だが小学生の頃に学校で戦争の記録映像を見せられた時のこと。米艦隊に突撃しよう急降下していた神風特別攻撃隊が次々に米艦隊の対空射撃に黒煙を吹き撃ち落とされているシーンの最中に後方から拍手が聞こえ驚いて振り返ってみたら教師らが並んで拍手していたそうな。その大人たちの姿に大変ショックを受けたと・・・私はそのエピソードを思い出し、怒りで全身の震えが止まらなかった。

 私は特攻隊員の遺影の前で、今の日本社会の惨状に「申し訳ない」と声を大にし謝りたい衝動に駆られた。しかし、誤ってしまえば日本を諦めてしまうことになる。それこそ命を捨ててまで祖国を守ろうとした彼らに対する裏切り行為だ。私は決して謝らない。変わりに私になにが出来るのか、もう一度本気で考えたいと決意をしていた。知覧を後にした私は人間魚雷と呼ばれた「回天」の訓練基地跡がある山口県大津島に向かった。



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