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戦争 , 記者会見 メディア関連 , 遺骨調査・収集

「ご遺骨収集で抱いた日本人としての誇り」     Voice9月号 掲載手記

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2010/09/10

「ご遺骨収集で抱いた日本人としての誇り」     Voice9月号 掲載手記

Voice9月号に掲載された、ご遺骨収集に関する野口の手記です。
是非、お読みください。

「日本政府は消極的な姿勢ゆえ民間団体で取り組むしかない

 太平洋戦争で亡くなった日本人兵士のご遺骨の大半が、いまだ海外に放置されていることを、どれだけの日本人が知っているだろうか。対戦中、本土以外で亡くなった方は約二百四十万人、そのうち約半数は、いまだ帰還を果たしていない。
 国のために命を亡くされた方のご遺骨収集は、本来ならば国の責任で行なうべき事業である。しかし戦後の日本は戦争をタブー視する傾向から、政府も長らく遺骨収集について

正面から向き合うことを避けてきた。その結果、国民のあいだでも戦争の記憶が薄れ、遺骨収集活動も存続の危機に瀕している。
 私が遺骨収集活動に携わるようになったのは約五年前。なぜ私がこの活動をはじめたのか。まずその経緯からお話させていただきたい。
 私の祖父は、第二次大戦でビルマのインパール作戦に参謀(第三十三師団)として参加した。生還を果たした祖父は、私に会うたびに、当時の話を語ったものだ。
「夜、洞窟のなかで仲間の兵士が泣いている。『どうした?』とみると、彼の足がウジだらけだ。『ウジが自分の足の肉をかじっている音が聞こえる……』。足は化膿し、黄色い膿【うみ】が垂れていた。彼は衰弱し、三日後に死んだ」
「当時、体力の限界にきた自分の部下たちを、竹で叩いて歩かせた。竹が割れるほど強く、何人も叩いた。なぜなら、歩けなくなった兵士には、手榴弾【しゅりゅうだん】をもたせなければいけない。自分のかわいい部下にそんなことできようか。だから心を鬼にして、無理やりにでも歩かせるんだ。それでも、やむをえず手榴弾を渡すこともあった」
「あの作戦は生き地獄だった。餓死やマラリアで、みな目の前でバタバタと死んでいった。参謀だった私には何百人という部下がいたが、その八割以上が死んだ。いまだに彼らの骨はあの場所に放置されている――」
 話を聞きながら、人間の「死」とはたいへんなことなのだ、と感じずにはいられなかった。
 そんな私は五年前、八千mを超すヒマラヤ登頂中、自身も「死」を覚悟する事態におちいった。何日も猛吹雪が続き、真っ暗なテントに閉じ込められ、ついに酸素も尽きようとしていた。そのとき私は、心の底から思った。
「日本に帰りたい……! オレもまもなくテントごと吹き飛ばされて、雪のなかに埋もれてしまうだろう。せめて、だれかがオレの遺体を見つけて日本へ連れて帰ってくれないものか……」
 このとき、ふいに祖父の話を思い出し、「戦争で亡くなっていった方も、こんな思いで逝【い】ったのだろうか。彼らもひと目、家族に会いたかっただろうな……」と考えた。そして私は、もし生きて帰ることができたら、必ず戦没者の遺骨収集に取り組もう、と心に決めたのだ。
 日本人のなかには、「遺体は丁重に扱う」という哲学があると思う。たとえば私の経験でいうと、エベレスト登頂において仲間を失う事態になったとき、八千mを超す山での遺体収容はかなり困難で、欧米人は遺体を放ったらかしにする。彼らにとっては「あれはただのボディ」、つまりモノにすぎないというわけだ。しかし日本隊だけはいつも、遺体収容に最大限の努力をはらう。
 ところが不思議なことに、遺骨収集となるとこの姿勢が逆転する。アメリカは現在、第二次世界大戦、朝鮮戦争などで行方不明となっている兵士の捜索、遺骨収集に年間約五十五億円もの予算をあてている。五十五億円というと、戦後から今日に至るまで日本国が遺骨収集にかけた総額だ(!)。さらにアメリカは、硫黄島にあるたった一体しか残ってない米兵の遺骨を、いまだ探索している。
 一方、日本政府の態度は非常に冷たい。遺骨収集は国家事業としては行なわれていないし、予算も先に述べたとおり、アメリカと比べものにならない。管轄のトップである歴代厚生労働大臣も、言葉では「遺骨収集は国の責任できちんと取り組むべき」というにもかかわらず、アクションはなにも起こさない。
 自民党政権末期になって、ようやく心ある代議士の方々に議員立法を提出しようという動きが出てきた。だがそれも、民主党に政権交代してからは頓挫【とんざ】している。民主党はどちらかというと、遺骨収集には無関心。二〇〇九年十月、鳩山由紀夫首相(当時)に、遺骨収集に対する政府の姿勢を問う公開質問状を提出したが、その返答も、非常に無味乾燥なものだった。
 ながらく続く政府の消極的な姿勢ゆえ、遺骨収集は民間団体で取り組むしかなく、私も力になりたいと思ったのだ。
 
空援隊の新提案により八千体のご遺骨が帰還
 
 無念にも海外で亡くなった方のご遺骨は、なんとしてでも日本にお帰しすべきである。そこでいま私が訴えているのは、遺骨収集活動は「オールジャパン」で取り組もうということだ。というのは、社会事情の異なる海外からご遺骨を帰還させるためには、日本が一丸となって相手に強く働きかけないと、物事が進まないからだ。 
 私はこの五年間、NPO法人「空援隊」に所属し、約五十二万人という、海外ではもっとも多くの遺骨が残されているフィリピンで遺骨収集活動をしてきた。日本政府のバックアップがないなかでの活動は、苦難の連続であった。
 たとえば遺骨を発見した場合、現地の村や市の長は、必ずといっていいほど裏金を要求してきた。お金をくれれば遺骨をもっていっていいよ、というのだ。この手の話は、遺骨収集にかぎらず海外で活動する団体が必ずぶつかる問題である。昨年も、レイテ島の横に位置するポル島(セブ州)で遺骨を収集しようとしたら、州知事の秘書のような人間がきて「最近、日本からのODAが減っている。ODAがない以上は、遺骨収集はさせない」と、ODAと取引しようとする。
 さらにフィリピンは、考える以上にはるかに危険な場所であった。都市部から外、とくに遺骨が残っているような地帯は、数多くのゲリラが潜伏している。日本人が丸腰で行けば、まちがいなく襲われるだろう。二〇一〇年三月、フィリピンの外れにあるカラミアン諸島に行ったのだが、島の岸壁までボートで行く際、フィリピンのゲリラ船がすぐに近づいてきた。向こうの船からは銃口がチラッとみえ、緊張が走った。幸い、別のボートで護衛をつけていたので、それをみたゲリラ船はスーといなくなったのだが。
 こういった社会情勢にくわえ、遺骨収集では収集システムにも問題があった。一例を挙げると「鑑定人制度」だ。
 これは一部で疑わしい骨を日本に持ち込む動きがあったために導入されたものなのだが、この制度では、いざ遺骨を発見したとき、日本兵の骨か否かを鑑定する人間が、フィリピン大学のダタール教授だけだった。厖大【ぼうだい】な数のご遺骨があるなかで、たった一人の鑑定人である彼が一片でも「日本人の骨ではない」との判断を下せば、たとえその他大多数が日本兵の遺骨であっても、すべてが「収集不可」とされていたのだ。しかもダタール氏の鑑定は、根拠が不明で、日本側への十分な説明もなかった。
 すべての骨に関して、「絶対に日本人のもの」と断定できるような科学的根拠を示すことは、極めて難しい。欧米人かアジア人かであれば、骨格の違いから判別できるが、アジア人のなかで、日本人か朝鮮人かフィリピン人かの「科学的根拠」を示すなど、もともと無理がある。
 そのなかで、あるひとつの骨に関して「絶対的な科学的根拠」が出るまで、ほかの遺骨の収集もあきらめるのか。それとも、もし大半が日本兵の骨であるならば、収集を是とするのか。議論がわかれるところだろうが、私は後者の立場である。「一片たりとも日本人以外の骨が混じってはいけない」ということで、大半の日本兵のご遺骨が放置されたままになっているのは、おかしいと思う。
 だから空援隊は、厚生省に新しい収集システムを提案した。それは、発見された遺骨に関しては、現地の地主や行政のトップの証言をもとに「日本人の遺骨である」との公正文書をつくり、フィリピン博物館に鑑定を依頼する。そこで承認され、マニラの日本大使館に最終的な「日本人の遺骨である」との証明書をもらえば、それで認めようというものだ。
 さらに、遺骨の情報源として現地情報を採用した。現地情報とは、まず日本兵と戦ったフィリピン人ゲリラ兵士。当時、米軍は空爆をするだけであり、洞窟にいる日本兵の山狩りは実質、フィリピン人ゲリラ兵士が行なっていた。彼らは当時の状況をとてもよく知っている。
 そしていちばん大きな情報源は、フィリピンのトレジャーハンターである。フィリピンでは、終戦時に山下奉文【ともゆき】将軍率いる日本軍がフィリピンの洞窟に埋蔵金を埋めたという伝説が、いまだに信じられている。また当時の軍刀やヘルメットなどの遺留品で程度のいいものは、マニラの骨董品屋で高く売れる。トレジャーハンターは、そういった金目のもの目当てに頻繁に洞窟に入っており、日本人には迷路としか思えない洞窟の構造を完全に把握している。彼らを味方にすれば一気に情報が集まってきた。
 こういった変化が転機となり、空援隊は昨年、約八千体のご遺骨の帰還を果たすという成果を上げた。これで遺骨収集活動も勢いを増す――そう考えていたときに、『週刊文春』(二〇一〇年三月十八日号)に空援隊への批判記事が出てしまった。
 
国内の分裂を乗り越えた「オールジャパン」をめざす
 
 記事は、「空援隊の収集した遺骨にフィリピン人の骨が混じっている」疑いがあると、空援隊を批判したものだった。たしかに、日本人以外の骨が混じる可能性は、一〇〇%否定できない。だが、これは空援隊以前の遺骨収集でも考えられたことだった。
 また、空援隊の新しいシステムにより、遺骨収集に大きな成果が出たのは事実。より多くのご遺骨を日本に帰還させることを第一に考え、問題が出てきたらその都度、改善しながら進むことが重要だと思うが、この批判記事は、その流れに逆行するように思えてならなかった。
 この一件は、日本がいつも陥る象徴的なパターンだ。どういうことかというと、日本はある問題で海外に対して一致団結して臨まねばならないとき、いつも国内で分裂をしてしまうということ。靖国問題、領土問題、慰安婦問題なども同様で、たとえばめざすところは同じはずの保守派が、そのなかで分裂してしまうことがある。これが日本の弱さである。
 遺骨収集に関していえば、空援隊と、遺族会・戦友会が対立してしまい、それが批判記事となって現われてしまった。対立を生んだ理由は、空援隊が抱えた疑惑と別に、主導権・利権争いがあったかもしれない。
 繰り返しになるが、遺骨収集活動は一九七〇年代以降、国家事業としては行なわれず、国民からも忘れられた存在だった。そのため私や空援隊は、何よりもまず、できるだけ多くの日本人に事実を知ってもらおうと、あらゆる場で発言を繰り返してきた。
 たとえば空援体は五十数名の国会議員から支援をいただいており、空援隊会長は社民党の阿部知子氏である。これを「空援隊会長に社民党の人間を選んだのは、保守層でない人たちも入りやすいようにと考えているのではないか」、さらに「主導権を握るためにメディアで影響力のある野口健を引っ張ってきているのではないか」と、うがった見方もされたりもした。空援隊を快く思わない方たちがいたのは事実で、いつか批判が出ることは覚悟していた。
 それが表に出た週刊誌の件で私が最重要視したのは、まずは疑惑に対して説明責任を果たすことだった。空援隊の活動には、ご遺骨基金による寄付金や税金が含まれている。そうである以上、疑惑に対し、事実関係をきちんと説明するべきだと思っていた。
 しかし、四月のヒマラヤでのキャラバン開始直後、報じられた疑惑に対する空援隊の公式見解が私のもとに届いた。理事の一人である私が、事前に把握していなかった公式見解――私は書かれてある言葉を何度も読み返して、呆然とした。
 私は「厚生省と共同で記者会見または説明会を行うべき」と思っていたが、空援隊の公式見解では「法的に有効である場合に限って、記者会見や告訴という方法論により最低限の対応や対処をする必要があるが、逆にいえば、それ以外は黙殺する以外にはない」とのこと。
 さらに、遺族会や戦友会、他のNPO団体との連携、つまり遺骨収集の「オールジャパン構想」について、公式見解では「(他団体との)摩擦は避けられないし、その摩擦を雑音として、結果だけを追い求める以外に正攻法はない」と明記されていた。空援隊に再度確認したら、「オールジャパンはあり得ない」との返答だった。
 私は自分が正しくて空援隊が間違っているというつもりはない。ただ互いに、どうしても譲れない一線というものがある。私の信念は、「社会的な活動を行なう際は説明責任を果たすべき」、また「他団体との連携も大切」ということだ。空援隊とは、最も大切なポイントで互いに譲れなかったのだ。だから、私は空援隊を辞める決意をした(二〇一〇年五月)。
 遺骨収集にはもう時間がない。おそらくあと数年で、実際に戦争を経験した方の生の情報が途絶え、収集活動はいちだんと難しくなるだろう。国内の組織同士で争っている場合ではなく、いち早く「オールジャパン」で取り組むことが必要だと思っている。そして、遺骨収集活動に空援隊の活躍は不可欠だとも思っている。今後も、協力の方法を模索しながら、私なりに精一杯取り組んでいくつもりだ。
 たしかに現実には、「オールジャパン」への道のりは遠いかもしれない。組織同士の対立を別にしても、国内には戦後、遺骨収集を口にすれば「右翼ではないか」とどこか色眼鏡でみられる風潮があり、そういった空気はいまも残っているからだ。
 教育現場ではその傾向が強く、遺骨収集を「戦争に行った人を大事にすること」、つまり「先の対戦の美化につながる」として嫌悪する人たちが、たしかにいる。私が小中学校での講演で遺骨収集の話をすると、あからさまに嫌な顔をする先生がいるし、「あの戦争の話は余計でしたね」と校長先生に直接いわれることもある。とくに日教組勢力が強い地域はそうだ。
 ただ最近は、一般の国民が遺骨収集に無関心にみえたのは、けっして避けているからではなく、ただ実情を知らなかったということがわかってきた。通常の講演会でも、遺骨収集の話を始めると、観客の空気がクッと変わる。また講演を聴いた多くの方が、応援の手紙を寄せてくださる。二〇〇九年八月、産経新聞社主催で日本初の遺骨収集シンポジウムが行なわれたが、定員数千二百名の大ホールに入りきらないほど応募が殺到したほどだ。
 さらに、わたしがまだ空援隊に所属していた二〇〇九年に遺骨収集基金を立ち上げたのだが、そこにあるご婦人が五百万円を寄付してくださった。御礼に伺うと、さぞかし豪邸にお住まいなのだろうと思ったら、小さなお家で、じつに質素な暮らしをされている。その方がこうおっしゃった。
「私はもう先が長くない。あなたの遺骨収集の記事を読んで、日本兵の骨がいまだに散乱しているという事実にショックを受けました。私のお金は天国にもっていけないので、ぜひ使ってほしい」
 先のご婦人は戦没者遺族ではない。一人の日本人として、そのように行動されたのだ。遺骨収集に対して同じ思いをもつ日本人が、きっと日本中にいるはずである。
 
元・台湾義勇志願兵が教えてくれたこと
 
 このように、遺骨収集と第二次大戦に対する賛否は、別問題である。そして、日本のために戦ってくれた方に対する感謝や敬意の気持ちを忘れてはならない。かつて私たちの祖先が命を賭けて戦ってくれたからこそ、いまの日本があり、私たちが生きている。そういった方々を大切にしない国は、必ず滅びる。この気持ちを忘れないとともに、それを後世に語り伝えていかなければいけいない。
 私自身、遺骨収集をするなかで、当時戦争に参加した方にお話を聞く機会が増え、当時について多くのことを知ることができた。最後に、そのなかでもっとも感動し、ぜひ多くの日本人に知ってほしい話を紹介したい。
 二〇一〇年三月、私は台湾で蕭錦文【ショウキンブン】さんにお会いした。蕭錦文さんは一九四二年に高砂【たかさご】義勇隊(太平洋戦争中に台湾原住民によって編成された日本軍部隊)に志願し、ビルマのインパール作戦で十五師団に加わったのち、奇跡の生還を果たした。彼はきれいな日本語で、私にこう語ってくれた。
「(台湾義勇志願兵には)私たちは自らが志願したのです。合格したときは泣いて喜びました。名誉なことだと嬉しかったのです。日本の軍人たちも、私たちを大切に扱ってくれました。苦しい戦いでしたが、私はいまでも誇りに感じています。
 戦後、日本政府は日本人ではない私たちには補償してくれませんでした(注・日華平和条約により、日本国籍を喪失し日本人でなくなったとの理由で政府は、台湾人を戦争被害の補償対象から除外した)。でも私たちはお金がほしかったわけではありません。ただ、日本の総理大臣から『よく日本のために戦ってくれました。ご苦労さまでした』の労いのひと言がほしかった。私たちは自分たちの意志で参加し、日本のために立派に戦ったのですから。
 私たちは傭兵とは思っていません。正規の軍隊、軍属だと思っています。ですから、他の日本人と同じように扱ってほしかった。それだけなのです。
 戦争はするべきではないけれど、実際に戦った者としていわせてもらうならば、日本が好んで始めた戦争ではありません。そして台湾は、日本の植民地時代にとても大切にしてもらった。教育もインフラも、日本と同じように日本人は一生懸命、台湾をよくしようとしてくれました。
 イギリスはシンガポールを二百年も統治していたのに、汚いみずぼらしい街でした。当時のシンガポールは九〇%の人たちが文盲でした。教育を受けていないから字が読めない。日本人は私たちに教育の機会を与えてくれました。同じ植民地でもこんなに違うのかと思いましたね。戦後のほうがたいへんでした。中国から蒋介石がやってきて多くの台湾人を拷問し殺しました。
 私はいまの日本がとても心配です。もっと自信をもってほしいのです。素晴らしい国だと胸を張ってほしいのです。私たちが命を賭けてまで志願し日本を守ろうとしたのは、日本が好きだったからです。それなのに、いまでは日本人が日本の悪口をいう。とても悲しいことです。私たちにはまだ大和魂が残っています。日本人にも大和魂を取り戻してほしいのです。
 あなたが遺骨収集を始めたと聞いて、とても嬉しかった。一体でも多くの兵隊さんを日本に帰してあげてください。日本のためにありがとう。ありがとうございます――」
 話を聞きながら涙が出た。私は先人たちを誇りに思い、遺骨収集活動をなんとしてでも続けよう、と心に誓った。
(Voice 2010年9月号)

正論2010年8月号にても、手記を掲載しています。

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