BCからコト村まで下ってきたときに、クックのデンディー・シェルパの母親の訃報が入りデンディーは急遽、ルクラ村(彼の故郷)に戻ることに。デンディーとは初ヒマラヤ(高校3年生の時)の時に出会ってからズッと僕と一緒。彼とはもう兄弟のようなもので、それだけにデンディーの母ちゃんの事もよく知っていました。デンディーは一昨年、兄が病死。昨年はもう一人の兄が自殺と、不幸が続き、そしてその矢先の母の訃報。そしてその訃報が入った夜も雨は降り続け、それはそれは冷たい雨でした。
風邪が悪化しコト村に二泊。そしてピサン村へ。ピサン村で一泊しマナン村へ。マナン村に到着した直後に村中がどうも騒がしいというか落ち着きがない。「どうしたのか」と聞けば「この近くで氷河湖が決壊したようだ」とのこと。「えっ!氷河湖の決壊!」と驚き、また耳を疑った。しかし、確かな情報はなく村人によって情報が違う。カトマンズに連絡し状況を確かめたら「土曜日にアンナプルナ峰またはマチャプチャレ峰周辺で大規模な洪水が発生。氷河湖の決壊か、もしくは雪崩、氷河の崩壊によってセティ川が塞き止められ氾濫したのか、分からないが、いずれにせよセティ川で大規模な洪水」とのこと。慌てて地図を開きアンナプルナ峰、マチャプチャレ峰の周辺の氷河湖を探してみたもののよく分からず。
氷河湖の決壊というよりも氷河の崩壊、もしくは土砂崩れによる洪水だろうと考えられた。温暖化による氷河の融解によって引き起こされる水害について様々な氷河湖に訪れ記録してきただけに「これは現場に行かなければ」とヘリをチャーター。
5月8日、午前7時半、カトマンズからのへりがマナン村へ到着。アンナプルナ山系を迂回しセティ川へ。セティ川は上空から見てもひと目で両岸が大きく抉られているのが分かるほどだった。そして最も被害が大きかったとされるカラパニ村へ。
このカラパニ村にはちょっとした温泉施設があり、またピクニックなどのコースがあり外国人トレッカーに限らずネパール人にとっても人気のある場所とのこと。しかし、そのカラパニ村を上空から探すものの見つからない。パイロットが「この下だ」と合図。そして高台に着陸し、現場に駆けつけたが何もない。一面が土石流に覆われ、足元がズブズブと潜りなかなか前に進めない。近くにいた国軍の兵士に「カラパニはどこか」と尋ねたら「この下だ」と我々が立っている地面を指さした。「えっ!この下!」と。
村が消えていた。
その近くで身動きが取れなくなっている水牛の姿。本当にここに村があったのかと信じられず、しばし呆然としてしまった。破壊された家などが散乱している姿を想像していたが、本当に何1つ何もない。村ごと、全てが埋まってしまったのだ。救助隊もごく僅か。10人ほどの国軍兵士もどこから手をつけていいのか分からないようだった。シャベルカーがその身動き取れなくなった水牛の救助作業を行なっていたが・・・。
呆然とする我々一向の横に同じく呆然とする青年の姿があり声をかけてみた。クマル・グルン氏(34)だが、彼の弟家族の家がこのカラパニ村にあったと。「弟は出稼ぎでサウジアラビアに滞在中ですが、彼の妻と子供が・・・」と。「子供はまだ3歳だった・・・」と声を絞り出すかのように彼はそう話した。「洪水が来たとき僕はこの丘の上の村にいた。もの凄い音と共に洪水が迫ってくるのが見えたんだ。弟の妻にすぐに避難しろと携帯電話で連絡したがつながらなかった。そして轟音と共にカラパ二村は消えてしまったんだ」「ただ見ているだけで僕らは何も出来なかったんだ」と。
「サウジアラビアにいる弟に連絡し、カラパニ村と一緒に家族が消えたと伝えた。受話器の向にいる弟はショックのあまり声もでなかったのだろう。僕の話を聞いているだけで何も話さないんだ」と。
「ここには5件のホテルと民家があった。温泉には外国人(ロシア人)もいたそうだ。また土曜日だったからピクニックで沢山の人が来ていたんだ。何人が埋まっているか分からないけれど少なくても50人以上はいると思う」。
ヘリの止まっている高台に戻ると、何人かの女性たちがやはり呆然としながらカラパニ村があった当たりを眺めていた。声をかけることさえ出来なかった。規模こそ違えどもあの3・11直後に目にした世界がここにも。
未確認情報だが、アンナプルナⅣ峰の氷河が崩壊した可能性があるとも。
ヘリで現場を離れ今夜はポカラへ移動。明日はポカラ市から陸路でカラパニ村を目指す。
2012年5月8日 ポカラにて 野口健