安い弁当工場だけでは学費が間に合わないので、もう一つバイトを探すことにした。しかし、ウパカルの顔を見るだけで面接さえしてくれない所もあった。それでも、とあるラーメンチェーン店が採用してくれた。面接をしてくれた店長はウパカルの
「死ぬ気で頑張る」
という言葉に感動したと言ってくれた。だが、従業員からかけられた言葉は、
「世界一貧乏な国から来たんじゃろ?」
という差別的なものだった。
そこから辛い日々が続いた。言葉の暴力だけではなかった。熱い麺を投げられた事も一度ではない。
精神面でも、肉体面でも辛い二つのバイト。寝る時間が削られ、嘔吐が続き、ついに血も吐くようになった。体重は40 キロ半ばに。痩せこけた顔は、自分のように見えなかった。
20歳も超え、その頃ようやく携帯電話を手に入れたが、両親にこんな姿を見せるわけにはいかない。食べてもない美味しそうな食事を写真に撮って送っていた。
いつものように学校の授業を終え、自転車に乗ってラーメン店に向かう途中、頭がグルグル回りだしたかと思うと、目の前が真っ白になった。気がつくと、途中にあるスーパーの自転車置き場に倒れ込んでいた。自力で起き上がることはできなかった。
どれぐらい時間が経ったのか分からない。「救急車呼ぶからね!」と言う声に、必死で「大丈夫です!」と反応していた。救急車で運ばれるところをバイト先の人に見られたら「もう来るな!」と言われるような気がしたからだ。
「じゃ、車に乗って。そこの病院連れてくから!」
救急病院で一晩中点滴をしてもらった。「過労と栄養失調」と診断され、入院をすすめられた。だが、学校もバイトも穴を開けることはできないので、次の日には病院を出るしかない。病院へ運んでくれた人は、時々ラーメンを食べに来ていた牧野という女性だった。
「こんなになるまで働かんといけんの? 国の親が知ったら泣くよ」
その言葉を聞いた途端、涙が止まらなくなった。
その後も何度か病院に検査へ連れて行ってもらった。何回目かの病院の帰りに、牧野は、一冊の本をプレゼントされた。野口建の『100万回のコンチクショー』。牧野は、こう言った。
「この本は、十年前に岡山市民会館で行われた野口さんのトークショーで、サインを書いてもらった大切な本なの。必ず勇気がもらえるから頑張って読んでごらん。懐かしいネパールのことも書いてあるよ」
本の前半、野口が幼稚園で「外国人」と言われ、差別を受け泣いて帰った場面がある。ウパカルは、そこで泣いていた。日本の本を読んで泣いたのは、初めてだった。
ウパカルは夢中になって読んだ。誰の力も借りず自分の力で読みたかった。分からない言葉や意味も必死になって調べた。
授業と二つのバイトを終え、部屋で『100万回のコンチクショー』を読む時間は至福の時だった。体は早く横になりたがっていたが、心は夜更けまで読書を求めていた。ウパカルはそこで様々な日本語と、これまで知らなかった世界を知ることができた。
野口に対して、尊敬と感謝の気持ちが溢れてきた。牧野からは、『落ちこぼれてエベレスト』も頂いた。野口が、冒険家・植村直己さんの本により人生が変わったと語るシーンは印象的だった。それはきっと、自分もまた、野口の本との出会いにより、生きる力をもらえていたからだろう。
いつも通り授業を終え、バイトに向おうとしていると牧野から
「来月末の土日の二日間、何があってもバイト休みをもらうこと。必ずね!」
とメールが入った。
どんなに疲労がたまっていても、バイトを休んだことのなかった。だが、牧野からの連絡である。無理を言って休みをもらった。牧野に
「いきなりどうしたんですか?何かあるのですか?」
と聞くと、
「夜行バスに乗って新宿まで行って、バスを乗り換えて山梨に行くよ!」
最初は言っている意味が分からなかった。驚くことに牧野は、こう続けた。
「富士山の掃除に行くんよ。そしたら一番会いたい人に会えるから!」
「健さんに会えるんですか‼」
体中に電気が走ったようなその瞬間を、ウパカルは今でも覚えている。
学校にも、バイトにも、精が出た。
牧野との約束の日、倉敷のバス乗り場を夜 20時に出発し、新宿には翌朝6時半に着いた。その間、嬉しさと緊張のあまり一睡もできなかった。
新宿に着くと、山梨行きの小田急バスに乗った。
『ミレー 野口健と行く富士山清掃』と書かれたプレートがあった。
本当に会えるのだ。ウパカルは信じられない気持ちでいっぱいだった。
ラーメン屋さんでアルバイト
野口健とウパカル、富士山清掃で初めて会うことができた
写真 ウパカル 文責 大石昭弘
野口健が理事長を務める認定NPO法人ピーク・エイドでは、ネパールポカラ村の小学校支援を行っています。
みなさまのご支援、よろしくお願いいたします。