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夢に向かって~ネパール人青年ウパカルの歩み~ 第4章 懐かしの故郷へ

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2020/11/22

夢に向かって~ネパール人青年ウパカルの歩み~ 第4章 懐かしの故郷へ

四回生となり就職活動に取り組む時期となった。観光学科で学んでいるウパカルは、ネパールの観光産業に役立つ仕事がしたいと考えていた。そんな折に、ホテルグランヴィア岡山で、バイトを募集しているという話を耳にする。
日本の「おもてなし」の精神を学んで、ネパールに持ち帰りたいと思った。
面接は緊張したものの、とても和やかなムードだった。面接が終る頃「で!いつから来れる?」と言われた時には驚いた。深夜のラーメン店に比べると時給はかなり落ちるが、ホテルで学ばせてもらいながら学費を稼げるのだ。これは全力でやるしかない。ウパカルは「宿泊部サービス課ベル係」としてスタートした。
「外国人で良くそこまで気が付くね」とお誉めの言葉を頂ける日もあれば、ウパカルの顔を見ただけで「ちゃんと分かる人を呼んでくれ!」と言うお客様もいた。
接客態度は、先輩達の動きを見て覚えていった。宅配便の手続きを依頼された時は、日本の地理を全く知らなかったので時間がかかってしまった。何日もかけて地図を見ながら地名を覚えた。そんなハンデもあったが、少しずつ、ウパカルはホテルの仕事に慣れていった。

思い返せば日本に来て間もない頃、日本語学校の帰りに何気なく、目の前に建つホテルグランヴィアを眺めていた。まさかあの時、自分がそこで、日本語で仕事をすることになるなど想像もしていなかった。
半年経った頃、上司から「このままうちの社員になればいい」と言われた。ウパカルはゼミの誰よりも早く就職内定者となったのだ。
保証人に、濱家先生がすすんでなってくれた。内定証を頂いた日、濱家先生は、思いがけない嬉しい言葉を口にしてくれた。
「就職も無事に決まったし、故郷のご両親に報告しに帰ったら?」
夢にまでみた故郷。ずっとずっと会いたかった両親。学校の方も全て単位は修得していたので、他の先生方も「ゆっくり帰っておいで」と言ってくれた。
タイミング良く、ノートルダム清心女子大学の渡辺和子シスターが、留学生向けの奨学金をウパカルに与えてくれた。

最後に納める学費の心配もなくなったウパカルは、バイト代でありったけのノートと鉛筆、ペンを買った。父が校長を務める学校の生徒達に新しいノートを届けてあげられるのだ。
希望と不安に満ちた日本への道のりを逆にたどり、五年ぶりに故郷へ。ネパールに近づくと、窓の外には懐かしいヒマラヤ山脈が。もうそこで涙があふれ出した。
長距離バスでカトマンズからポカラへ。そこからタクシーに乗り、家の近くで降りると、父の姿があった。お互い言葉も出ず、力いっぱい抱き合った。すぐに二人の妹達も駆けよってきて泣いた。家のドアを開けると、ウパカルのために夕食の用意をしてくれていた祖母と母が「おかえり!」と言ってキッチンから飛び出してきた。涙でいっぱいの笑顔。80半ばの祖母は「ウパカルの顔をもう一回見ないと死ねないからね」と口ぐせのように言っていたそうだ。
家族に会ったらあれを話そう、これを話そうと頭の中で整理をしていたつもりだった。だが、胸がいっぱいになり、何から話していいのか分からない。
バッグの中から日本のインスタント麺とお菓子、ユニクロの服、そして父への髭剃りと腕時計を取り出した。そのたびに驚きの声を上げて喜ぶ家族。日本では、辛くて何度も倒れていたことなど、とても言えなかった。
懐かしい母の手料理を食べながら、何時間も家族に囲まれ楽しい夜を過ごした。

翌日は、ウパカルの母校で、父が校長を務めている小学校へ。もう一つのバッグいっぱいに入れて持参した鉛筆や、鉛筆削り、学用品、キャンディー、チョコレート。そんなお土産を生徒達一人一人に配った。
キャンディーを口にして大歓声を上げる子供達。百均で買ったゲームを順番に遊ぶ姿。嬉しい気持ちの反面で、日本の子供達との「格差」というものをウパカルははっきりと感じていた。
日本では子供が電車中、高価なスマホでゲームをしている。授業でタブレットを使っている学校もある。放課後は、子供同士でファストフード店に入っている光景も。自分の自転車を持っているのは当たり前。だが、その自転車さえも使わず、親が車で送ってくれたりすることもある。
これが先進国と途上国の違いだ。
ウパカル自身、五年間も日本で生活をしていて、この格差を忘れかけていた。
洗濯機、エアコン、電子レンジに掃除機。トイレにはウォシュレット。シャワーからはお湯が出てくる。そんな「便利すぎる生活」が当たり前になっている日本人がネパールの暮らしを見たら、逆に驚くだろう。川で洗濯をしているところをみれば、昔話の世界に入りこんでしまったと思うのかもしれない。

だが、問題は「もの」が少ないことだけではない。
ネパールの中には貧しくて学校へ通えない子供達が、たくさんいるのだ。家族が生きていくためには自分も働き手となり、学校に行くことなど考えたこともない子供もいる。
学校へ通えたとしてもお昼ご飯もなく、水を飲むだけで、常にお腹を空かしている子供も多い。
その親達も、学校へ行かなかった人がほとんどだ。彼らは、自分達は教育と「無縁」だと思っている。自分の名前すら書けない大人たちも多く、そのために就職も見つからない。ウパカルが小中学校の頃には、家族が貧しいために、売られてしまった同級生もいた。
インドとネパールの間では、ブローカー同志が手を組んで、人身売買が平気で行われている。日本では子供は国の宝。いや、ネパールだって本当はそうなのだ。にもかかわらず、子供達が、自分の親の手で売られていってしまうという現実。
そして、ネパールではいまだに「チャウパディ」という男女差別の習慣が残っている。若い女性は、生理中は小屋に隔離させられる。女性に教育は必要ないといった古い考え方も根強い。実はウパカルの母親もそうやって育てられた。母は周囲の決めた結婚により十代で父の所へ嫁いできて、父の親族や周囲の人達から大きな差別を受けていた。旧態依然とした考えが残り続ける理由の一つは、やはり教育がないからだろう。
そんな環境を変えたいと思っていた父は、決心をした。放課後は、大人達にも字を覚える時間を作ろう、と。
そして今や、大人のための夜間学校は村で定着し、自分の親世代から年配の方までが、喜んで通っている。力仕事や農作業の後でも疲れを一切見せず、生き生きと文字を学んでいる姿。それを日本の大学で居眠りをしている学生が見たら、何と思うだろうか。
父は、いつもこう言っていた。
「人生はいつでも学びだ。何事も経験だ。苦労しても、辛い思いばかりしても、学ぶことは続けなさい。そして自分が得た知識は、必ず人に共有することを忘れないように。人に教えるほど、自分が磨かれていくものだ」

里帰りの二週間はあっという間に過ぎた。
母親は号泣することが分かっていたので、父と相談して、母が眠っている未明に静かに家を出た。
朝、飛行機の窓からエベレストが見えた。「頑張っておいで!」とエールを送られた気がした。日本でまだまだ勉強をして、役立つ人間になってネパールに帰って来よう。ウパカルは、そう心に誓っていた。

ノートルダム清心女子大学の渡辺和子シスターとノートルダム清心女子大学の渡辺和子シスターと

5年ぶりに故郷へ。家族と再会。5年ぶりに故郷へ。家族と再会。

お土産の文房具を子どもたちに渡している。お土産の文房具を子どもたちに渡している。

写真 ウパカル 文責 大石昭弘

野口健が理事長を務める認定NPO法人ピーク・エイドでは、ネパールポカラ村の小学校支援を行っています。

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