僕らが大切にしたのはその山々への向き合うアプローチ。キリマンジャロ(5,895m)もやると決めてから約2年間もの間、国内での山合宿を繰り返し、またキリマンジャロ前にはネパールはカラパタール(5,545m)、チュクンリ(5,550m)、ナガゾンピーク(5,100m)、ポカルデピーク(5,806m)、また東南アジア最高峰のキナバル峰(4,095m)にも登った。
絵子さんが小4の時に「キリマンジャロに登りたい」と話した直後にぶっつけ本番で挑戦しても登れたかもしれない。しかし、それでは僕らにとって意味がない。
その山に登りたいと思ってから実際に挑戦するまでのアプローチこそに意味がある。どのような装備が必要なのか、またトレーニング内容含めた試行錯誤が冒険の面白みでもある。
かつてエベレストで村口徳行さんがその醍醐味を僕に教えてくれたように。
そしてキリマンジャロ直前にはタンザニアのメルー山(4,566m)にも登頂し高所順応を完璧に成し遂げた。
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メルー山山頂
「ここまでやるのか」という程に徹底的に登り込んできた。
また、国内合宿ではあえて悪天候の中、縦走もおこなった。八ヶ岳では雨に打たれながらの10時間以上もの縦走。肉体や精神的にも苦痛を味わう。白神山地でも大雨のなか、ガイドのマタギの方にアドバイスを頂きながら登山を行った。
絵子さんも最初の頃は「寒い」といって泣いていたが、繰り返すうちに「苦痛慣れ」したのか、又は「あの時に比べたら今日はまだいい」と比較するようになったのか、又は自分の限界を知りペース配分するようになったのか、いずれにせよ追い詰められながらも少しずつ余裕を見せるようになった。山行を重ねる度に逞しくなっていくのが手に取るように伝わってきた。
途中で逃げ出すことはできたはず。何度か、本人の意思を確認したが、そこには迷いはなかった。本人が投げ出したいと告げてきたらいつでも止めるつもりだった。山はあくまでも本人の意思で登るものだ。
この世界で生きていく上で時に苦痛を体に叩き込んでおく事は大切なこと。これをやっておかないといざ本場でいきなり悪天候に見舞われるとパニックに陥る事がある。
このご時世、側から見たら悪天候の中を登らせていたら「虐待」と映るのかもしれないが、こちらは命がかかっている。娑婆の雑音とはまるで異なる世界で生きているのだ。
あの悪天候のキリマンジャロでパニックにならず淡々と登れたのは悪天候でのトレーニングを積んできたからだと確信している。
そして話は元に戻すがこの夏のネパール遠征は数ヶ月前から決まっていた。夏のモンスーン季は毎日のように雨が降る。バケツをひっくり返したような雨が降るのも決して珍しくない。
従って夏のヒマラヤは主にトレッキングやエベレストBCの清掃活動を行ってきた。
今回はムスタン王国に訪れた長年日本人が行ってきた野菜プロジェクトの現場視察が主な目的であった。
が、しかし、出発2日前に絵子さんが何かモジモジしながら、何かを言おうとしては納めてはまたモジモジの繰り返し。そして溜め込んだものを一気に吐き出すかのように「相談がある」と。
「予定を変更して9月にロブチェピークに登りたい!」と。いきなりの提案に驚いた。
何しろモンスーン季は6000m付近になると雨から湿った雪に変わる。連日、雪が降り続ける。高温に雪。雪崩も多発するだろう。辞めた方いい。それに出発直前に予定を変更するのは良くない。シェルパ達もムスタン行きに備えてエベレスト街道からカトマンズに降りてきて待機している...。そのような説明をしたが、その日の絵子さんはやたらと頑なであった。
「なら1人でロブチェピークに登る!」といい出す始末。
シェルパ達に連絡をし「モンスーン真っ最中のロブチェピークはどうかな?」と確認したら「大丈夫だと思う」というニアンス。
しかし、僕はこれまでに何度かモンスーンのヒマラヤに挑戦した事があるが、登れた事もあれば、まんまとクレパスに落ちて宙ずりになったことも。
氷河を下っている時に足がスッーと雪面に吸い込まれていく。妙に滑らかに音もなくスッーと。
いや、吸い込まれているというよりも地面から無数の手がのびてきて僕の足首を掴んでは闇の中に一気にひきずり込んでいくような...
瞬間的に背筋が強張り「やっちまった!」と声にだす間もなく1人静かに氷河に消えた。
クレパスの穴に引きずり込まれる際、顎を氷河に打ったのだろう。脳の中で火花が派手に散った。
気がついたら暗闇の中にいた。両足は地についていない。プランプランと宙を浮いていた。上を向いたら一筋の青空が遠くに見える。ものの5メートル程だったのかもしれないが、僕には遠くに見えた。
なんとかシェルパ達が引き上げてくれたが、あの音もなく足を飲み込んでいく氷河の感覚は今での脳裏に焼きついて離れない。
98年の秋のエベレスト挑戦も上部キャンプを離れたその夜に雪崩でテントを全て流された。あれも完一発だった。モンスーンのマナスル峰も雪崩の爆音が振動と共にテントを叩き続けた。寝袋の中、息を殺すように朝が迎えに来るまでジッと過ごした日々。
モンスーン季のヒマラヤにトラウマさえ抱いていた。
絵子さんの判断に疑問を抱きながらも、そういう自分もモンスーン季のヒマラヤに何度か挑んでいたのも事実。
ドロっとする程に悩みに悩んだ。時に娘の決断に付き合うのもまた親の役割かもしれないと翌朝にはカミさんに「今回は特に覚悟しておくように」とだけ伝えた。
本人には「リスクはある。それでもいいんだな。覚悟をしているなら付き合うぞ」と。
そして「俺らの命はどうでもいい。大切なのはシェルパたちの命だ。野口隊はや60回ぐらいヒマラヤに挑戦しながらもシェルパや隊員を1人も死なせてはいない。その重みを噛み締めること。いいね」と付け加えた。
そのような流れの中で火蓋が切っておろされたモンスーン季のロブチェピーク挑戦であった。