暗闇のなか「ザク、ザク」とアイゼンの爪が氷河を突き刺す音が響き渡ればいい。しかし、この日は「ザク、ザク」ではなく「ズボリ、ズボリ」。予想通りではあったが...。
箇所によっては腰まで雪に埋まる。絵子さんは腰から胸付近まで雪に埋まりながら、まるでヘドロの海をもがきながら進むように悪戦苦闘していた。
何メートルか先を進んでいた娘が当然、雪と共に私の手前まで流されてきた時には背筋が凍りついた。
3年連続、モンスーン季(偏西風、日本の雨季に近い)のエベレスト街道に訪れているが、今年は特に雨降りが多い。連日の雨、雨、雨で青空を見せたのは数日間のみ。ベースキャンプから下は雨。上は湿度がたっぷりの雪が岩場をすっかり覆い尽くしていた。
腰まで雪に浸かりながら「やはりこの遠征はやめた方がよかったのか」と呟いていた。ロブチェピーク(6,119m)はツルツルの岩場が多く、その上を雪が幕を張るように覆い被さっており、気をつけて足を乗せないと滑り台のように雪と共に体が滑り落ちていく。
何度も肝を冷やし「岩をちゃんとつかんで」と絵子さんに繰り返し伝えた。明らかにピリピリモードであった。
山頂付近が見えてからまた悪戦苦闘。雪がまだ一段と深くなり中々、前進できないでいた。
数日前に登山シーズンに向けシェルパ達によるルート工作隊が山頂を目指したが雪の状況か悪く途中で断念していたと聞かされていたがその意味がよくわかった。
トレースを除き込んでみたら古い雪と新雪の層がハッキリしているように見えた。サーダー(シェルパ頭)に「雪崩のリスク、高いね」と話したら「ボラサーブ(隊長)、今はその話をしない方がいい」と会話を遮られた。皆、いつになく口数が少なかった。
アタック中にも雪が降っては止みの繰り返し。午後に近づくにつれ温度が上昇し汗だくになる。
ベットリとした重たい雪に足を取られ何度も倒れた。ふと日本を出発する前の絵子さんとのやり取りを思い出していた。
「トレッキングならまだしも、モンスーン季の6000m峰登山は雪崩のリスクが高い。やめた方がいい」と絵子さんに伝えたが「なら1人でヒマラヤに行く」とこの時ばかりは一歩も引かない。誰に似たのか一度、言い出したら頑固なのである。
「リスクはあるぞ。しかも、それは俺たち2人だけではない。シェルパ達もだ。野口隊は約60回、ヒマラヤ遠征をしてきたが隊員やシェルパ達を1人も死なせていない。絵子の判断で野口隊から最初の犠牲者を出すことになるかもしれない。その重みをリアルに想像した上で判断してみたらいい」と伝えた。最終判断を彼女に委ねる事にした。
その結果「ヒマラヤに行く」と絵子さん。ならば共に命を賭けるしかないとカミさんには「今回の遠征は覚悟をしておくように」と伝えていた。
久々にピッケルを握る手がゾクゾクとしていた。小さな雪崩が発生しただけで総勢5名が滝の流れのように1000m下にあるロブチェ村付近まで落下していく。
何度かその光景が頭を過っては振るい落としていた。途中、猛烈な吐き気に襲われたのもそのせいかもしれない。
この遠征に対し思うことは多々あったがもう勝負は始まっている。本当にヤバいと感じれば強制的に下ろすことは決めていた。あとは運命を天に任せ、黙々と山頂を目指すだけ。
過去に5回、ロブチェピークに登ったがこれ程までに山頂が遠いと感じた事はない。山頂直下で絵子さんに「山頂はもう目の前だ。頑張ろう」と話しかけたら「雪崩が怖い...もう、これからはお父さんのアドバイス通りにする!過去一怖い」。
その直後に登頂したがいつものような喜びが湧いてこないのは絵子さんも同じようだった。山頂で「私のせいでシェルパ達にも危険な思いをさせて...本当に申し訳ないです」と絞り出すよすような声でそう話した。
この一言は登山を続けていく上で最も大切なこと。人の命を預かっているという事を決して忘れてはならない。当たり前だが人は一度しか死ねないのだから。
とはいえ山頂を楽しもうと雲に覆われ景色は全くなかったが皆でカステラを食べ「ヒマラヤの山頂で食べる文明堂のスポーツカステラは旨い!」と盛り上がった。衛星電話で日本の事務所に連絡をし登頂の報告。
そして下山開始。また、あの恐怖のルートを下るのか...。再び沈黙の時間に戻った。
粉雪が舞う中、ベースキャンプに到着し初めて2人で本当の笑顔になった。「絵子、よく頑張ったな。ただ、分かっているよね」に「うん、よく、わかっている」と。後はたわいもない会話のまま荷物を片付けディンボチェ村まで降った。
トータル約16時間。ベースキャンプから下は冷たい雨が疲れた体を容赦なく打ってくる。歩きながらあれこれ考えていた。
「それにしても、若い登山をしたもんだな。そういえば学生の頃に同じようなヒマラヤ登山をやっていたっけ。あの頃は勢いだけで登っていた。いつだったか、デェンディと2人でザイルも持たずにモンスーンのメラピーク(6,476m)に挑んでいた。クレバスを助走をつけてはジャンプ。視界のない中、ピークと思われる頂きが見え悪戦苦闘のなか、登った。デェンディと抱き合って喜んだが、その直後に霧の合間からその奥に更に高い頂きが突如現れデェンディと2人して膝から落ちた。なんと手前の偽ピークに登っていたのだ。登頂を諦め下山中にクレバス地帯をノーザイルで震えながら下った記憶は未だに脳裏に浮かんでは身震いする。30年近く前の出来事だが、デェンディもその時の光景が未だに蘇るようで「あのメラピークは私の人生で最も危なかった」と繰り返す。
考えてみたら絵子は年齢的にも正にあの頃の私だ。抑えきれない勢いというのは若さの特権であり象徴でもある。勢いなしに若さはない。
素直に褒められた登山ではないが、山頂で絵子さんのシェルパ達への「詫び」の言葉に救われるものがあった。
ギリのギリではあったがこの登山にも意味はあったと思いたい。雪崩の恐怖が付きまとうモンスーン季のヒマラヤ登山では目に見えない「死の恐怖」を全身で感じたはずだ。この体験は次の冒険に繋がるだろう」と感じていた。
ディンボチェ村に降りてから絵子さんに「12月上旬から南米大陸最高峰のアコンカグア(6,961m)に挑戦したい」と正式に告げられた。
アコンカグア挑戦の前に「6000m峰をもう一山、登りたかった」のだとも。つまりロブチェピークはアコンカグアの前哨戦として挑んでいたのだ。
しかし、春にヒマラヤのメラピーク遠征に続き、またロブチェピークに登ったばかりである。絵子さんの実績からして一年で6000m3本はどうかな。一回一回の集中力が散漫にならないのか。絵子さんにそんな話しをした記憶がある。
しかし、絵子さんは「どうしてもアコンカグアに登りたい」と一ミリも譲る気配なし。また「1人で行くから」と一々、面倒くさい娘である。
アコンカグアに登るためにはもっと歩き込んで下半身を鍛えておいた方がいい。92年に私が同期の秋山慎太郎とアコンカグアに登ったが、ガイドなし、ポーターなし。それなりに大変だった記憶が蘇った。アコンカグアに登頂しベースキャンプに戻った2人はげっそりと痩せ細っていた。
「ロブチェピークは無理をしたのだから、アコンカグアはしっかりと準備をしてからにした方がいい。無理が続けばいずれ遭難する。そういうものなんだ」とちょっとした親子喧嘩?親子議論?
まあ、2人して遠征をしていたらそんな時もあります。夜にバチバチと冷戦が繰り広げられても翌朝にはまるで何事もなかったように「おはよう」。日々が冒険であり、細かな衝突に構っていられない事情もあるが、互いによく気持ちを切り替える事が出来たものだと関心する。その部分に関しては絵子さんの方が大人だったような気がしなくはない。
絵子さんからしたら大学を休学してまで山に登りたかった訳で一年間の総仕上げとしてアコンカグアで締めたかったのだろう。気持ちはよく分かるが、色々な事が重なりその結果、アコンカグア遠征は延期となった。 来年の12月に目標を定めまた2人して日本の山々を縦走しながら足腰を鍛えればいい。今年、アコンカグアに挑戦しても登れる可能性は高いだろう。しかし、時にエネルギーを溜め込むのも必要なこと。
それにしても、絵子さんはやりたい事があまりに多すぎる。山、農業、海洋資源の保護、それぞれの活動に追われ休学しているにも関わらずスケジュールがビッシリ。
好奇心が強いのはいい事だが本人には「テーマを絞った方が内容が濃くなるのではないか」と伝えたいが「全部をやりたい」と一歩も引かない。
私が学生の頃は全てを山に賭けていた。あの頃の私には山しかなかった。「一点突破」を目指してがむしゃらに山に登っていたが、しかし、そこは私と絵子とでは大きく異なるのだろう。なんせこちらは「落ちこぼれてエベレスト」ですから。
しかし、ふと思い出したのは学生の頃の山岳会の先輩方の姿。そういえば私も先輩方から「10年早い」と散々言われながらも抗ってきた。
あのロブチェピークの山頂で「これからはお父さんのアドバイス通りにする」はどうやら一瞬にして反故にされてしまったようだ。
ただ、それだけにこれからが楽しみでもある。常識を超えてこそ人生面白みがある。一回の人生。やれる精一杯の事をとことんやればいい。その中で「これだ!」というものが見つかるだろう。
そんな風に感じさせてくれたロブチェピーク登山であった。気がつけば遠征後半は学生時代の自分に戻っていたみたいにヒリヒリしながらも楽しんでいた。
結果オーライである。