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東日本大震災

娘と復興地に訪れて ~三陸地域の今、そしてこれから~

東日本大震災

2012/01/12

娘と復興地に訪れて ~三陸地域の今、そしてこれから~

この年末年始、ヒマラヤ・ムスタンへの遠征を予定していましたが、出国当日の朝、急激に体調を崩しそのまま入院。ヒマラヤ遠征中止はとても残念でしたが、こればっかりは悔いてみてもどうしようもない。ヒマラヤで倒れていた事を想像してみれば、むしろ出発直前に日本で倒れた事がラッキーだったと思えばいい。そして、日本に残るのならば、その意味を探さなければならないわけで、病院のベッドの中、あれこれと考えていた。何しろ点滴の管に繋がれっ放しで自由に出歩けるわけでもなく、考えることぐらいしかやることがないわけで。

そして決めたのは退院したら三陸地域に訪れる事だった。倒れる二日前には陸前高田市の広田小学校に訪れていた。小学6年生と体育館でゲームをしたり、教室で話をしたりと、約二時間ですが一緒の時間を過ごすことができた。

震災直後から、寝袋支援プロジェクトなどで何度か三陸地域に通っていましたが、あの頃はゲームをしたり、お話しをするような状況ではなく、広田小学校にも何度か伺ったものの子ども達とじっくりと話をする機会はなかった。それが出来るようになったのだから、それだけでも大きな変化でした。当たり前のことが当たり前にできるようになったのだから。

そして2012年を迎える前に無事に退院し、再び三陸地域に訪れる事にした。今までは救援物資を届けるためであったり、講演活動での三陸入りでしたが、今回はあえてノープランで行くことにした。今現在の現場の様子をじっくりと感じたかったからだ。そして今回は小学2年生の娘も連れて行くことにした。震災後、あの巨大津波の映像が何度もテレビで繰り返し放送されましたが、テレビで見るのと、現場に訪れるのとでは雲泥の差がある。家がまるでマッチ箱のように流されていく映像には大きなインパクトがありますが、あり過ぎるがゆえに、あの9・11の映像を始めて見た時のような今一つ実感がわかないというか、我々の想像を遥かに超えてしまうだけに、ただただ茫然としてしまうほうが強い。それはまるで別の世界の出来事のような、しかし、実際に現場に訪れてみると目の前の壮絶な出来事が間違いなく現実の世界なのだと突きつけられるもの。現場に行かないと本当の事は分からないもの。


今回は仙台~石巻市~女川町~南三陸町~気仙沼市~陸前高田市を訪ねる事にしました。
石巻市、女川町、南三陸町は始めて訪れる場所。また一月下旬には女川町で地元の方々との交流会が予定されているので、その前に訪れてみたかった。

それとずっと気になっていたのは「被災地」という呼び方。震災直後ならまだしも未だに「被災地」と呼ばれ続ける事に地元の方々はどう感じるのだろうか?とフェースブックで呟いたら「復興地がいいのでは」とあり、なるほど、確かに「復興地」という呼び方は気持ちが前向きでいいと納得。


三陸地域の旅は地図を片手にその日その日、何処に行こうかとハンドルを握り、まずは石巻の門脇小学校へ。現場入りしてから知ったのですが、この門脇小学校は紅白歌合戦で長淵剛さんが歌ったまさにその現場だった。校舎の大半が黒く焦げ、建物の中は津波が押し寄せた傷跡が生々しかった。廃墟となった建物を、外側から眺めるのと、内側を見るのとではまた表情が大きく変わってくる。建物の中には、子ども達の文房具があったり、小学生用の小さな机や椅子があったりしますが、それが泥にまみれていたり、グシャグシャにつぶされていたり、場所によっては真っ黒に焦げていたりする。僕は講演活動のためによく小学校に訪れるだけに、黒く焦げ、また泥まみれになっている教室を眺めていると、「キンコンカンコン」とチャイムが鳴り、ワイワイと元気な子ども達が教室へと廊下を走っている姿など、日常生活の様子をすぐにイメージしてしまう。
019_1番・もう、この校舎に子ども達が戻ることはないという。石巻市門脇小学校。.jpgもう、この校舎に子ども達が戻ることはないという。石巻市門脇小学校

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娘はそれこそ小学生だ。学校生活こそが日常。変わり果てた学校の様子をジッと眺めながらあまり多くを語らなかったが、あの世界を前にすると言葉を失うもの。私も始めて訪れた時は言葉を失った。

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そして次に向かったのが石巻市立大川小学校。全校生徒108人のうち74人が亡くなり、行方不明となった。児童の約7割が津波の犠牲となってしまった大川小学校。大川小学校の周辺には住宅街があったそうですが、何にも残っていない。河原の中に大川小学校がポツリと残されているような、やはりここでも言葉を失う。

009_17番・大川小学校の校門にて.jpg大川小学校の校門にて


010_18番・きれいに清掃された大川小学校の教室.jpgきれいに清掃された大川小学校の教室

校舎の中は学校関係者、または子ども達の家族によってだろうか、きれいに清掃されていた。どのような思いで清掃したのだろうかと想像してみたら胸が締めつけられる。中には三人兄弟全てが犠牲になったケースもあったとか。そして校門には多くの人々が途切れることなく献花に訪れていた。

011_19番大川小学校に残された生徒たちのメッセージ.jpg大川小学校に残された生徒たちのメッセージ


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大川小学校の真横に裏山がある。もしあの裏山に避難していれば、などとふと考えてしまう。地元の方々から、遺族の中からは学校側への憤りの声が上がっているとも聞いた。「何故、裏山ではなく川の方面へ避難しようとしたのか」と。それに対し学校側は明確な返答が出来ていないとも。ただ、学校側も10人もの職員が犠牲となり、その職員の方々も同じように津波の犠牲者であり、また家族がいる。これから生徒の遺族の方々と学校側がどのように話し合われていくのか分かりませんが、果たして着地点などあるのだろうか。果てしなく長く続くトンネルのようでなんとも辛い。

もし仮に僕が大川小学校の教員でその場にいたら「裏山に逃げろ!」と指示をだしていたのだろうか。河口から約4キロも離れた大川小学校。津波はこの4キロをも逆流し大川小学校を襲ったのだ。津波を経験したことのない若い職員が多かったとも聞いた。大川小学校の前に立ち尽くしながら「もし僕が教員だったら、どうしていたのだろうか」と、何故かそのことばかりを考えていた。起きてしまったことに対し後からコメントを出すのは誰にでも出来るかもしれないが、では、仮に自分がその場にいたとして、また責任者だったとして、あのパニック状態の中、どのような決断を下していたのかとリアルに想像すると答えがでなくなる。多くの生徒を守れなかった学校関係者の方々もさぞかし無念であろうし、犠牲となった生徒のご家族の気持ちを想像してもとても無理。想像できるわけがない。津波はみんなを不幸にし、そしてその苦しみはこれからも続く。


その翌日、女川町に向かった。この町には私の知り合いの方の実家があった。カメラマンの鈴木麻弓さんですが、彼女が学生の頃にカメラマンの助手として私の事務所に一度来たことがあった。あれから10年以上の年月が過ぎ、そしてこの大震災。震災直後に彼女のツイッターを発見したが、彼女の呟きは壮絶だった。実家が流されただけではなく、ご両親までもが行方不明に。しかし、そんな状況であるにも関わらず彼女の呟きは絶えず前向きだった。震災後、彼女と再会し、その縁もあり一月中旬に彼女の故郷で地元の方々との交流会が予定されました。

006_14番・奇跡的に残った佐々木写真館の赤レンガ.jpg奇跡的に残った佐々木写真館の赤レンガ


その女川町に到着したら海岸の市場付近は建物がかろうじて残されているだけであとは何もない。彼女の実家を探そうと何となく聞いていた情報で辺りを探してみた。この状況でどうやって・・・と。一面は家の土台が辛うじて残されているような更地状態。しかし、彼女の実家である佐々木写真館の赤レンガの壁のごく一部を発見。佐々木写真館の写真を一度だけ見たことがあったので分かった。神奈川にいる鈴木さんにメールで撮影した写真を送り「これですか?」と訪ねたら「山好きな父が喜んでいると思います」との返事に、しばらくその実家のあった場所から離れないでいた。

ツイッター情報で私が女川町にやってくるのを知っていた地元の方々が私のもとへ訪ねてくださった。そして震災前の女川町の話を聞かせてくださった。また津波が押し寄せてきたときの細かな様子までお話しくださった。こちらからすると、辛いお話をさせてしまっているのではないかと、気が気ではなかったですが、それでも今回の旅で共通していたのは、訪れた先々で地元の方々が震災前はどういう町であったのか、また震災後の状況、またその後の人間関係や、ボランティアの方々との様々なエピソードなどを事細かにお話しされる。無理をして話をされているのか、それともお話しされることで何か気持ちの整理に繋がっているのだろうか、それは個人差もあるのでしょうが、私が勝手に受けた印象は話をすることによって前へ前へと進んでいこうとしている姿でした(私の思い違いなら申し訳ありません)。

次に南三陸町に向かいましたが、あのテレビでも大きく紹介されていた防災対策センターにはどうしても行きたかった。私の著書「それでも私は現場に行く」の中にもご紹介させて頂きましたが、南三陸町長の佐藤仁氏の手記が壮絶だった。屋上から津波の様子を眺めている内に津波はあっという間に屋上を超えてしまった。第一波が去った時にはフェンスにつかまっていた30人中、20人が流されていた。そして更に巨大化した二波。佐藤町長は残ったスタッフたちとアンテナに登ろうとするのだが、足をかけるところがないから電線とかケーブルをアンテナに引っかけて登る。とっ、同時にその真下を津波が轟音を立てながら流れていく。アンテナの先端に佐藤町長たちがよじ登り海面すれすれになっている写真を見たことがありますが、まさにすれすれ。そして吹雪の中、全身ずぶ濡れ状態で手はかじかむ。アンテナをつかむ力が抜けてしまえば死を意味する。朦朧とする意識の中で部下たちに「ほかのみんながいなくなって、俺たちだけが残ったんだから、もう生き延びなきゃダメなんだ」と叫ばれたそうだ。

「生き延びなければダメなんだ」、この言葉は私にハッとさせられた。1999年、2007年と二回エベレストに登頂しましたが、その二回ともに登頂直後に悲劇が繰り返された。

007_15番・南三陸町・骨組みしか残らなかった防災対策センター.jpg南三陸町・骨組みしか残らなかった防災対策センター


99年、下山開始直後に滑落した英国人登山家、2007年、日本人登山家と共に登頂し、下山開始直後の出来事。山頂直下で歩行困難となった彼がその場で息を引き取るのをじっと見つめる事しかできなかった。彼らをエベレストに残したまま山を下らなければならなかったが、あの日以来、ふと頭の中を過るのが「生き残った者の役割とは何か」。いつもこの言葉が頭の片隅から離れないでいた。佐藤町長の「俺たちだけが残ったんだから、生き延びなければダメなんだ」はとっさに出た言葉かもしれませんが、生き死にの世界を跨いがゆえの言葉であり、またシンプルであるがゆえに本質をついている。その佐藤町長の言葉をよりリアルに感じるために、僕は骨組みしか残されていない防災対策庁舎の前に立っていたのだろう。

008_16番・南三陸町・志津川病院にて.jpg南三陸町・志津川病院にて


南三陸町を後にし、気仙沼市へ。気仙沼市には昨年4月、7月に訪れている。気仙沼にはカキやホタテの養殖業を営んできた畠山重篤さんがいらっしゃる。震災直後、その畠山さんの安否を確認しようにもどこにも情報がない。そこで知り合いの放送局の小原 啓さんに畠山さんの情報があればくださいとお願いし、4月2日、ようやく畠山さんと再会することが出来た。

震災直後、あれだけの状況の中でも畠山さんは一言も後ろ向きな発言をされなかった。畠山さんの母親も津波の犠牲となり、養殖施設や船など全てが流されているにも関わらず、「海に生きるものの宿命」と言い切り、また「我々は海があれば生きていけるんです。大丈夫です」と真っ直ぐ前を見ながら仰っている姿に逆にこちらが勇気を頂いていた。畠山さんは嬉しそうに何度も「息子たちが本当に頑張っているよ。男三兄弟が力を合わせてね。もうカキが上がったし、今度来るときには美味しいカキを食べさせるよ」と目を細めながら嬉しそうに話してくださった。畠山さんのご自宅前の海にはいくつかの筏が浮かんでいた。そう、もうすでにカキの養殖が再開しているのだ。僕には希望の筏に見えた。


024_7番・震災直後に訪れた時の気仙沼様子(2011年4月撮影).jpg

025_8番目・今では瓦礫も綺麗に撤去され電信柱も復活。(2012年1月に撮影).jpg

震災直後に訪れた時の気仙沼様子(2011年4月撮影) 今では瓦礫も綺麗に撤去され電信柱も復活。(2012年1月に撮影)

 



畠山さん宅を後にし、陸前高田市へと向かった。驚いたのは気仙沼にしろ、陸前高田市にしろ、あれだけ町中を覆っていた瓦礫の山が町の中心部から消えていること(瓦礫は集められ端の方で山になっていた)。瓦礫がなくなり廃墟となった建物がポツンの残されている姿を眺めながら感じたことは瓦礫には瓦礫の表情があったと。そして今回は廃墟となった建物の中にも入ってみた。泥にまみれた部屋にはそこで生活していた家族の生活がそのままに残されている。部屋の中はあの日のまま時が止まっている。いずれこの建物も人々の生活の痕跡と共に解体される。残された瓦礫や建物には確かに表情がある。その表情はまるで津波によって犠牲になった方々の声を代弁するかのように強いメッセージを私たちに伝えてくる。瓦礫や廃墟となった建物の撤去、解体は復興に向けてのステップであり、それに対してはもちろん異論はありませんが、ただ、全てが消えてしまうのはなんとも寂しい。まるでその地で人々の営みがあったことまでもが否定されてしもうかのような、そしてあと何十年もしたら人々の記憶からも遠ざかってしまうかもしれないという寂しさ。


001_10・番瓦礫に覆われていた震災直後の陸前高田市の様子(2011年3月撮影).jpg 002_11番番瓦礫が撤去されポツリと残された廃墟ビル(撮影2012年1月撮影).jpg
瓦礫に覆われていた震災直後の陸前高田市の様子(2011年3月撮影) 瓦礫が撤去されポツリと残された廃墟ビル(撮影2012年1月撮影)

これは賛否両論あると思いますが各地域に震災のシンボルとなりうる何かを残すべきではないだろうか。例えば陸前高田市ならば市街地に打ち上げられたあの巨大漁船や、南三陸町ならばあの防災対策センターであったり。あの現場でも多くの方々が犠牲になっているだけにご家族からすればその建物を見る度に心が痛むと、故にそう簡単な問題でないことも重々承知の上ですが、それでも私は一部を残すべきだと強く感じる。人々の危機意識はそう長く持続するものではない。危機感を持続させるためには社会の努力が必要だ。教科書に載せるのもそう。資料館のような施設で写真や映像を展示、放映するのもそう。しかし、写真や映像資料だけではどうしても伝わりきれない。現物そのものがないと。

だから広島の原爆ドームは保存されたのだと思う。原爆ドームの保存もおそらく様々な意見があったでしょう。賛否両論の中でどのようにして保存が決定されたのか、今まで考えた事もなかったが、今はとても知りたい。広島の人々が原爆ドーム保存に対しどのように感じてきたのか。原爆ドームには強いメッセージが込められているだけに、あの原爆ドームを見る度に原爆の恐ろしさを理屈抜きで感じさせられる。私はまだ訪れた事がないがポーランドにあるアウシュビッツとてそのままの状態で残されている。戦争と震災とではひょっとしたら意味合いが違ってくるのかもしれないが、多くの人々が犠牲になった点でも、その悲劇を繰り返してはならない点でも同じではないか。最終的には地元の方々が決める事ですが、危機意識を持続させるためにも、また、この地で多くの人々の営みがあった事を忘れないためにも、私はシンボルを残す必要があると感じています。

003_12番・殺伐とした荒野の中、マイヤビルの鮮やかな水色が印象的だった。。.jpg殺伐とした荒野の中、マイヤビルの鮮やかな水色が印象的だった

004_13番・荒野となってしまった陸前高田市市街地にて。.jpg荒野となってしまった陸前高田市市街地にて


013_22番・破壊された高田高校の前に立ち、何を感じているのだろうか.jpg破壊された高田高校の前に立ち、何を感じているのだろうか

そして最後に。この旅は本当に美味しかった。石巻市や気仙沼市では寿司屋通い。市場も徐々にではありますが動き始めた。そして寿司屋含め飲食店も動き始めた。石巻市では 寿司一八さんへ。気仙沼市では鮨智さんへ。どちらのお寿司屋さんも素晴らしく美味しかった。退院直後とあって本当は生ものを控えたほうが良かったのかもしれませんが、そんな事よりもこうして三陸地域のお寿司屋さんでお店の常連さんと一杯やりながら、また語り合いながら美味しく頂くなど、震災直後には想像もつかなかっただけに心底嬉しかった。    

鮨一八さんのご主人、佐々木正直さんは「津波が押し寄せた時には一階が四日間にわたって浸水した。もうムリかなぁ~と廃業も考えた。でも、もう一度やろうと決めたんだ」と力強く語ってくださった。美味しいお寿司を頂きながらふと思い出していた。なるほど、これは確かに「復興地だ」と。一歩一歩だけれどこうして着実に前へ前へと進んでいる。もう「被災地」ではなく、これは「復興地」なんだと。
014_23番・一月中旬に予定している女川町での交流会でお世話になる勝然さん夫婦.jpg一月中旬に予定している女川町での交流会でお世話になる勝然さん夫婦

015_24番・女川町のみなさんとm.jpg女川町のみなさんと


016_25番・気仙沼の「すし処鮨智」のみなさんと.jpg気仙沼の「すし処鮨智」のみなさんと


017_26番・石巻の鮨一八さんにて.jpg石巻の鮨一八さんにて


018_27番・畠山重篤さんファミリーと.jpg畠山重篤さんファミリーと


そして一つ思い浮かんだ事がある。三陸地域でのツアーだ。東北とは様々な関わり方がある。例えばボランティアや募金もそう、またこうして現地に訪れて、美味しい物を食べて、飲んで、泊まって、買い物をする。つまり東北を楽しむ!これだと思った。お寿司屋さんで僕が「美味しい!」を連発しながら頂いていたら、ご主人がなんとも嬉しそうな表情をみせてくれたのがとても印象的でした。これが本来の姿なのだろうと。ギブ&テイクの関係はお互いに気兼ねしない。極めて自然な関係性。サービスを提供する方も、される方も共に喜びを感じる。我々が「復興地で楽しむ!」これが一番なんじゃないかと、真剣にそう感じていた。まだ一部かもしれませんが、それでも当たり前の事が当たり前にできるようになってきたのだ。「復興地で楽しむ!」そんなツアーを企画したいと、これは本気です。

年末は福島県会津若松を旅し、年始は三陸地域を旅した。どちらも素晴らしい旅だった。東北の自然はとても美しい。毎年訪れている白神山地もそうですが、今年は東北中の山々を歩いてみるもいい。東北の美しい自然にカメラを向けたい。夏になれば三陸地域の海水浴だっていいだろう。そんな事を考えているだけでもワクワクする。


そして最後に娘が復興地からの帰り道、現地で見たことを「絵に書く」と伝えてきた。小学二年生なりに感じる事が多かったのだろう。また子どもには辛い現場を見せ過ぎたかな?と思い、彼女の表情を眺めながら「また来たい?」と訪ねたら、「うん、また行きたい」と迷わず答えてくれた。東京に戻り数日後、彼女は一枚の絵を描いた。陸前高田市の様子でしたが、消えた町にポツリと残された廃墟ビル。決して明るくはない生々しい絵だったが、しかし、「マイヤ」の建物のシンブルでもある頭の水色がしっかりと描かれていた。あの色のない殺伐とした光景の中、あの鮮やかな一点の色に、私も一粒の光を感じていた。辛うじて町に色が残されていたのだ。今はあの水色一点かもしれないが、これからは色を増やしていけばいい。そうなればあのマイヤの水色は希望の光となる。極めて抽象的な表現かもしれないが、僕も娘もあの光景は生涯忘れることはないだろう。同じ光景を見、同じ事を感じていたのだ。まさにこれが現場の世界です。

次回、またこうして一緒に復興地に訪れた時には、娘の絵に新たな「色」が描かれることを願いながら、自分たちに出来る事をコツコツとやっていきたい。

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2012年1月9日 野口健

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