コスモ石油野口健環境学校二日目は富士山登山。小中学生24人、午前7時、五合目から富士山山頂を目指して登山開始。今回の環境学校は西湖にて手作りのイカダで横断を試みたり、また富士山山頂を目指したりと、今までの環境学校よりも「挑戦」の部分を膨らませた。スタッフの中にも「これでは野口健冒険学校で環境学校ではないのでないか」といった意見があった。しかし、私はどうしても自然体験を増やしたかった。
何故ならば自然環境問題に関わってみて、違和感を覚える事が多くなってきたからだ。「頭でっかち」なのかなぁ~表現が不適切かもしれないが、いわゆる「環境オタク」的な流れを感じてしまう。時にヒステリック的でまた乱暴だ。「開発」なのか「保護」なのか、「百か零」といった議論が目立つ。
私の環境学校に集まる子ども達も確かに知識はある。しかし自然体験が極めて少ない子が多い。それでいながら環境問題を語らせると大人よりも知識が裕福であったりする。しかし、次の日になってみると彼が何をしゃべっていたのか思い出せない時がある。立派な事を話していたにも関わらず。何故だろうと考えてみたら、勉強した知識を並べていて、実体験から生まれた生の言葉でないからかもしれない。自分の言葉になっていないのだ。
それは大人達も同じ。サミットや多くのシンポジウムに参加してきたが現場の危機感とは大きく異なり「言葉の世界」。地球温暖化といった言葉は頭の上を飛び交うもののリアリティーが感じられない。そして自然環境問題の学者の先生方と接しているとコミュニケーションが苦手な方が目立つ。シンポジウム前の控室でも会話を避けたりまた自分の専門分野以外に関心をもたなかったりと・・・。
私が違和感を覚えるのは自身が環境問題からスタートしたのではなく、登山家として世界中の山々に挑戦し続けている最中にぶつかったエベレストのごみ問題でありその経験から始まったからなのかもしれない。環境問題ありきではなく、結果、環境問題だったのだ。故に頭から「地球環境問題」と来るとどうしても違和感を覚えてしまう。
野口健環境学校に参加する子どもたちに「環境オタク」になってもらいたくない。子どもたちには自然体験の中から結果、自然環境問題への取り組みに繋がればいいなぁ~と思う。そして登山などを通じて仲間たちとの「助け合い」「支え合い」の素晴らしさを経験してほしかった。この部分がもっとも大切なのだが、それでいながらその部分が軽視され弱くなってしまっているような気がしてならない。
そもそも「環境」は「自然環境」とは限らない。「社会環境」があれば「家庭内環境」「学内環境」「環境が良い」「環境に左右される」など。「環境」を辞書で調べれば「取り組んでいる周りの世界。人間や生物の周囲にあって、意識や行動の面でそれらと何らかの相互作用を及ぼし合うもの」となっている。つまり環境問題は「環」(わ)であり、人(社会)とのまた自然、あらゆるものへの繋がりです。私は「野口健自然環境学校」を目指しているのではなく、あくまでも目指すは「野口健環境学校」なのだ。
ほとんどの子どもたちは富士山初挑戦だった。24人中17人の子どもが達が登頂。高山病で頭痛に苦しみながらもよく耐えた。登頂できなかった子も七合目で諦めかけていたのに「八合目まで頑張ります」と八合目を目指した。そして下山後「八合目が私の頂上でした」と、みんながそれぞれの山頂を目指し到達した。ある子は「今までは我が道を往くでした。人には無関心でしたが、富士山はみんなに支えられて登れた。支え合えば、出来ないことも出来た」と、私が最も伝えたかった事です。
今日(15日)は富士山山麓での清掃活動を行った。自分が挑戦したあの富士山での清掃活動。それだけにみんな力が入った。気迫が違った。二泊三日と短い時間だったけれど、彼らと過ごした時間は僕にとって宝物でした。
また、野口健環境学校のスタッフも何をどう伝えたらいいのか、時に激しく議論し時に共に葛藤し、もがき、昨夜も遅くまで野口健環境学校の今後について話し合いを行っていました。野口健環境学校のスタッフはみんな超本気です。僕はそんなスタッフに囲まれ幸せです。
明日はコスモ石油アースコンシャスト・アクトのイベントで富士山清掃活動が行われます。明日も新たな仲間達と聖地で活動を続ける。
2008年8月15日 川口湖町にて 野口健